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●対談 川渕 孝一氏 2004.04 最新医療経営

●対談 川渕 孝一氏 2004.04 最新医療経営

誰もが夢に向かって挑戦できる社会づくりをめざす
小泉・自民党政権の受け皿を担うべく自由党との合併を果たし、マニフェストを掲げて総選挙に臨み、40議席増の躍 進を遂げるとともに、比例区で2,200万票を獲得して第一党となるなど、政権交代可能な二大政党の一翼を担う政党として確固たる地位を築きつつある民主 党。イラクへの自衛隊派遣、遅々として進まない構造改革などの難題にも独自案を展開することで自民党との違いを明確に打ち出す同党は、21世紀における政 党のあり方を体現した政党として、若手議員を中心に積極的な活動・運動を実践している。
今回はそんな民主党若手議員の旗手として活躍する、浅尾慶一郎参議院議員をお招きし、自らの政治活動、社会保障制度の今後の方向性などについて、話を聞いた。

理想とする社会を語れなければその場凌ぎの政治になる

「川渕」
先生は39歳とまだお若いのですが、まずは政治家を志された経緯をお聞かせいただけますか。

「浅尾」
政治には昔から興味があったのですが、親が政治家でもありませんので、大学卒業後は金融機関に就職しました。世はバブル直前の1987年でしたから、とりあえず流行りの銀行に入行したわけです(笑)。
その後、90-92年にかけて、アメリカのスタンフォード大学のビジネススクールに留学したのですが、バブル全盛の日本経済はビジネススクールでも盛んに取り上げられていましたね。
しかし、いざ住んでみると生活感が違う。アメリカの方が遥かに生活が豊かだという印象を持ったのです。そこで何が 問題なんだろうかと考えるなかで、私は「個々の生活レベルを上げることが大切」ということに気付いたのですが、いかんせん銀行員の身ですからどうすること もできない。そんな折、ビジネススクールの同級生と将来について語り合うなかで、政治への興味が再び沸々と湧いてきたのです。もちろん、「そんなに簡単 じゃない」という気持ちも強かったのですが、「やってダメでも仕事ぐらいあるだろう」という同級生の言葉に後押しされました。

「川渕」
そして帰国後、新進党(当時)の候補者公募に応募、選出され96年の衆議院選挙に立候補されたのですね。

「浅尾」
ある日の休日、ゴルフ帰りに寄った洗車場で「新進党が候補者を公募する」という 新聞記事を偶然目にしたことがきっかけです。「これならなれるかな」って思いましたね(笑)95年に銀行を退職。初めての選挙となる96年の衆議院議員選 挙には落選しましたが、地元の皆様の温かい応援にも後押しされ98年の参議院議員選挙に再挑戦し当選。政治家となったわけです。

「川渕」
先生は政治家としての資質として、一つはどのような社会を構築するのかという理 想の社会像を語れる能力、二つ目は、現状からその理想とする社会に至るためにどのような政策の組み合わせを必要とするかを考察出来る能力、そして、三つ目 として約束したことは必ず守るという姿勢が必要と強調されています。なかでも、一つ目の「語れる」という言葉の重要性を意識した政治を信条とされているよ うですが。

「浅尾」
理想とする社会をはっきりと有権者である国民に語れなければ、その場その場の状 況対応の政治になってしまう。「自分はこういう日本にしたい」「こういう方向に日本をもっていきたい」ということが語れてこそ、「そのためにこういう政策 が必要」ということが言えるのではないでしょうか。
私自身、選挙に落選したこともありますが、夢を見つけて何度でも挑戦できる社会が望ましいと考えています。それが 自己実現につながっていくと思います。やりたいことが見つけられて、それに向かって挑戦していく過程が一番楽しいわけです。しかし、今、多くの人はリスク があるからやりたいことがあってもやらない。最初から見つけることを諦めている人も若者を中心に増えています。こうした人たちにどうやって夢を見つけさせ るか。そこが一番の政治の課題かなと思っています。誰もが夢を描けるそういう社会にしていくことが結果として社会全体のレベルアップにつながっていくので はないかと思います。

「川渕」
どうすれば皆さんが自己実現できる社会になるのでしょうか。

「浅尾」
ある程度自分の目標が見つけられている人には、セーフティーネットをつくり、失敗してもそんなに痛まないようにする。
たとえば、新しく事業を始めるときに、個人保証がなくてもお金を集められるようにすれば、事業が失敗しても自己破 産をしなくてすみます。問題は、夢や目標を見つけられなくなっている人、見つけることを諦めてしまっている人ですが、「やればできる」というモデルケース をマスコミなどで、どんどん報じてもらう。音楽やアニメーションでは世界でも活躍している人たちが沢山います。そうした、活躍の範囲を広げていく支援をす ることも大切だと思います。

求められるのは安心感の持てる裏づけのある政策

「川渕」
次に政治と医療の関係について、少しお話をおうかがいしたいと思います。医療 サービスそのものは対人サービスですが、医療や社会保障制度となる99.9%は政治すよね。先生にぜひ、おうかがいしたいと思っていたのですが、これから のわが国の医療制度を考えるうえで、政治には今、何が求められているのでしょうか。

「浅尾」
やはり一番求められているのは、社会保障制度全体に対する、短期的ではない中長 期も含めた安心感の持てる、裏づけのある政策でしょう。そして、もう一つは公平感だと思います。年金の場合、厚生年金は給与天引きですよね。ですが、一方 で国民年金ですと未納者が4割を超えている。もちろん払えない人もいるわけですが、サラリーマンからすると「俺たちは取られているのに、払わなくてもいい 人がいるのはずるい」と思う。その時点で公平感がなくなっているわけです。みんなが公平に負担していると思えなければ、制度として崩壊してしまいます。

「川渕」
私の実家は自営業ですが自分の両親は払っていましたね。そうすると同じ自営業のなかでも「払っていない人がいるのではないか」と思うわけですよ。

「浅尾」
「払っていない人」がいるということが、公平感を損わせているんですね。

「川渕」
確かに世の中には「払えない人」もいますね。これはしょうがない。問題は払える 能力があるのに払わない人。これは明らかにルール違反です。私の友人が厚生労働省の年金担当なのでこの点について聞くと、彼らは「ルール違反は取り締まら なければならない」の一点張りです。でもこれでは本質的な問題解決にはならない。ポイントは、「どうして払わないか」です。

「浅尾」
確かに取り締まれば良いですが、その取り締まりにかかるコストは納付されるべき 金額を遥かに上回るわけです。厚生労働省は年金の徴収コストは税金の6倍と言っていますが、私は実質10倍だと思っています。それでは、コスト的に言って も、能力的に言っても取り締まりきれないでしょう。

「川渕」
そうすると消費税という議論になりますが、この消費税も大変きつい税金ですよ。以前、自由党が主張していた「目的消費税」では22~23%になります。

「浅尾」
私自身は能力に応じて公平、効率的に考えると、少なくとも年金の基礎的な部分に ついては消費税しかないと思っています。厚生年金は違いますが、現在の国民年金は逆進的な仕組みです。今後毎年280円ずつ上がっていくことになっていま すが、1万3,300円という価格は、自営の方の所得者がいくらであろうと変わらないわけです。しかし、消費税であれば所得に応じて結果的には負担は変わ ります。

「川渕」
先生自身、消費税はどれくらい上げるべきとお考えですか。

「浅尾」
それはまさしく川渕先生の専門分野になってくると思うのですが、これまでわが国 は医療も年金も保険と税のなかでやってきました。しかし、世の中にはやはり、より多く負担できる人もいるわけです。その人たちからすると、保険と税という のは「自分と関係があるかどうかわからないのに取られている」という意識が強い。そこで考えられるのが、保険と税以外にも「貯蓄がある」という話です。社 会保障にかかわる部分に個人の貯蓄という考え方を導入すれば、消費税でまかなわざるを得ない部分は残るものの、社会保障費全体を圧縮することができると思 います。

「川渕」
「取られる」という発想は国民に蔓延しています。社会保険方式ですから、当然支払う義務があるわけですが、これだけ年金不安が募ると「その見返りとは何ぞや」という部分が非常に不透明なんですね。

「浅尾」
「年金や保険よりも貯蓄」という考えが出てきても不思議ではない環境にあります ね。もちろん、年金制度は大切ですし国民皆保険制度の果たしてきた意義も認識していますが、かといって自らの意志で貯蓄し、老後の生活や医療サービスを受 けるという考え方を、ただちに間違いと決めつけることはできません。キーワードは「国民が選択できる」ということでしょう。これからも年金制度を維持し皆 保険でいくのか、それとも貯蓄との選択性とするのか。これは将来の社会保障費の観点からも相当魅力的な話です。

日本の政党はすべてリベラル

「川渕」
政治の話で言えば、私はかねがね思っているのですが、日本の政党はみんなアメリ カでいう民主党なんですね。アメリカの民主党はリベラルです。「マイノリティ-を尊重しましょう」とか「弱者救済」を叫ぶ政党です。ところが、日本には共 和党がないのです。自由民主党も民主党も、公明党も…。みんなアメリカでいう民主党なんですね。

「浅尾」
もっと言うと、日本の政党はみんな民主党”風”なんですが、やや歪で、それは役人が上から見て弱い者を守ろうという政党なんです。これがいけないんですね。

「川渕」
そうなんですよ。タブーな話かもしれませんが、たとえば「生活保護を受けている方が本当に弱い人」なのかというという議論もあると思います。

「浅尾」
おっしゃるとおりです。本当に弱い人は守らなければなりませんが、法律に書いてある定義に該当すればと、自分を定義にあてはめて生活保護を受けているような人も存在します。そういう人は本当は弱くないと思います。

「川渕」
「ずるい人」と「弱い人」を混同してるんですね。かつては9割が中流階級と言わ れていたわが国ですが、近年では、所得格差は開く一方です。しかし、これを貧富の差が大きくなってきていると見るのか、努力しない人が増えていると見るの かによって、その対応は違ってきます。個人的には努力しない人は社会保障の対象にすべきではないと思います。もちろん、最低限のセーフティ-ネットは必要 ですが。

「浅尾」
最低限努力した人が1回で報われるかはわかりませんが、そのための環境はつくる べきですし、一方で、努力しない人は報われるべきではないという主張もおっしゃる通りだと思います。ただ、先ほども言いましたが、努力することを諦めてし まった人にも、「もう1回努力すれば良いことがある」と思わせてあげる機会は必要だと思います。そこが難しいのですが…。

「川渕」
先生はマレーシアのマハティール前首相とも親しいなど、アジア各国首脳とも親交 がある国際派としても知られていますが、わが国の医療も今まさに国際マーケットの時代を迎えています。「世界に冠たる…」などと言われるわが国の医療です が、私の講座の調査によれば、平均在院日数では米国の4.4倍、患者の死亡率でも腎不全以外では日本は米国より高いといったレベルなのです。実際に、アメ リカの非営利法人が、日本在住の日本人を対象に医療貯蓄口座を利用した会員制の医療サービスをアメリカ本土の病院で行う試みをスタートさせています。株式 会社ではなく、非営利法人がアメリカに患者を持っていってしまうという現実がそこまで迫っているのです。

「浅尾」
このままだとわが国医療の空洞化が懸念されますね。なぜそうしたことが起きるのか。日本の社会保障制度を問い直す良い機会だと思います。今後も川渕先生には、多方面からご意見をうかがえばと考えております。

「川渕」
本日はお忙しいなか、ありがとうございました。

「浅尾」
ありがとうございました。

< 川渕 孝一(かわぶち こういち) >
1959年、富山県生まれ。83年、一橋大学商学部卒業。86年、シカゴ大学経営大学院にてMBA取得。民間企業勤務の後、国立医療・病院管理研究所(現 在の国立保健医療科学院)、国立社会保障・人口問題研究所勤務(併任)、日本福祉大学経済学部教授、日医総研主席研究員などを経て、東京医科歯科大学大学 院教授、経済産業研究所ファカルティ・フェロー(現職)。主な研究テーマは医療経済、医療
政策など。

●日本を「憧れの国」にしたい!民主党若手の共同提案 2003.09 Voice

●寄稿 日本を「憧れの国」にしたい!民主党若手の共同提案 2003.09 Voice

浅尾 慶一郎(参議院議員)
大塚 耕平(参議院議員)
細野 豪志(衆議院議員)
古川 元久(衆議院議員)
松井 孝治(参議院議員)
松本 剛明(衆議院議員)

日本国は衰退する・・・のか

近い未来の話をしよう。
例えば「人口問題」。少子化への対策も空しく、将来の人口減は避けられない事実について。はたして日本は、本当に人口数千万人の小国となってしまうのか。

たとえば「老後の生活不安。」人口比で高齢者の占める割合が年々高まってゆく既定事実について。財源の目途も乏しく、若者が働いても働いても収入のほとんどが高齢者の年金など福祉に吸い取られてしまう、そんな現実が起こりうるのだろうか。
そして、産業。生産基地を海外に移転する一方で、国内ではこれといった目玉産業を生み出すこともできず、高い失業率も解消できないのか。

そのほかにも、問題は山積している。
教育の荒廃。環境破壊。都市機能の一極集中と官僚機構の肥大化。断末魔の様相さえ見せはじめた政党政治の疲労困憊と政治不信による投票率の低迷・・・。

日本国は衰退する。前途に横たわる問題をざっと並べてみたとき、未来はこの一言に収斂されてしまうのだろうか。

忌憚なくいえば、一般に日本人が描く未来像は決して明るいものとはいえないだろう。
それゆえ、日本人は「自民党をぶっ潰す」と公言する小泉総理を歓迎し、マイナーチェンジではなく病巣の根治をめざした大手術を望んだのではないだろうか。

だが、いま目前で繰り広げられる政治は、あえて特徴付ければ「総論欠落」の「各論先行」の印象が強い。しかも、各 論にも進捗はない。従来、漠として論点の見えづらかった政治に、郵政事業や道路公団の民営化という解りやすい題材を提供することで耳目を集め、あたかも状 況打破に動きだしたかに見せた。

しかし、この゙改革゛に日本人のめざすべき未来が欠落していることは明かだ。

重要なことは、近い将来、日本がどのような国家であるべきかを示すことではないか。すべての政策は、まず一つのモデルやビジョンを示し、そのうえで、掲げた目標へ至るための手段として論じられるべきなのではないか。

本稿の目的は、対症療法的各論ではなく、中長期的スパンで日本がめざすべきビジョンや骨格を提言することにある。そして同時に、理想に向けてどんな具体的なアプローチを行うのか。個々の政策についても言及していこう。

<「内なる充実」による再生を>
では将来、日本人は何を理想として生きていくのか。そして日本国の中心には何を据えようというのか。
冷戦の終結により東西対立の枠が崩壊して以降、対テロ戦争を軸に国際社会の関係が再編されるなか、米国というスー パーパワーを一強とし、中国、欧州、ロシアという大国および地域の動向を抜きに世界は語れなくなっている。
今後、日本を取り巻く世界では、これらの覇権国 家が中心的役割を担うと予測されている。
翻って日本を見るとどうか。人口をはじめ面積、資源、または歴史的経緯からも、大国、あるいは覇権国家たらんとす ることには少々困難であるといわざるをえない。つまり、競争優位の観点から日本を再度分析して、そこに活路を見出し国民の求心力を維持しつつ経済的サバイ ブを図っていかなければならない。
結論をいえば、大国と同じ道を歩むことはできないということだ。

しかし、日本の未来が現在よりもさらに国際社会のなかで輝き、アジアをはじめ多くの国々から尊敬され、世界の人々 から目標とされ、憧れさえ抱かれる存在となる未来に異を唱える者はいないだろう。それには日本が゙閉じた国゛ではなく、むしろ開かれた国として、強い発信 力を備えた国となるべきであり、その結果、国際社会においてより大きな存在感も有することになるであろう。

日本の歩むべき道は、外に「覇」を唱えるのではなく、内なる充実により世界から注目を集める国になること。
これを言葉にすれば、現代の輝ける国、「ネオジパング」――となるだろうか。
かつて、日本が黄金の国「ジパング」と呼ばれたのは、当時の日本がたんに物質的に豊かであったり、黄金が輝くよう に見えたからといった理由からではない。
本当の理由は、むしろ物質ではなくそこで暮す人々が精神的にも安定した生活を送っていたからこそ、日本人の満たされた生活が゙憧れ゛として西洋に伝えられたからだ。

いま、我が国は再び「ジパング」として世界から羨望と尊敬を集める憧れの国となるべきではないのか。

幸い、日本人にはいま自身がどん底にあるとの認識が強い。
これは見ようによっては、かえって根本から日本の問題を見直そうとの気運を呼ぶ大きなチャンスでもある。部分修正や綻びを繕うのではなく、思い切った方向転換や体制の変革を行うべき時期であると。

毎年60万人の人口減少
縦軸を見よう。戦後の60年。日本は、大雑把に言えば成功の40年と先送りの20年であったと大別されよう。
問題は先送りされた改革である。
プラザ合意のなされた1985年、われわれはすでに改革の必然に直面していた。だが、バブル経済に代表される好景気により、そのチャンスは潰え、改革は先延ばしにされつづけてきた。
われわれが今後何かを作り上げるにしても、この未達成 感を一度どこかで払拭しなければならないはずだ。

いま求められている改革は、明確に時期を区切って、例えば人口がピークを迎える2006年を目標年限としてはどうだろうか。
これを境に日本は有史以来初めて直面する人口減の局面に突入する。新たな時代のカントリーモデルを打ち立てるには絶好の年といえよう。

それが我々の提案だ。

世界から「ネオジパング」と呼ばれる日本には、つねにチャンスが溢れ活気があり、その一方ではほどよい緊張と安らぎがなければならない。
この国では、誰もが自己実現を果たすチャンスが与えられており、それによって人も資金も世界から日本をめざして自主的に集まってくる。
ただし、耳ざわりのよい言葉だけの目標を掲げても、結局、机上の空論、絵空事に終わってしまっては元も子もない。

以下、本稿ではいかに目標に至るのかを順次具体的に述べたいと思うが、先ず理解してもらいたい前提として、目標そのものがきわめて高い理想に基づいたものであるために、それに至るプロセスもやはり安易な道ではないことも念頭に置いてほしいということだ。
当然、なかにはアレルギー反応同様に、従来の日本人の感覚に照らすと強い違和感を覚えるような政策も含まれることになる。
しかし、その場合にも、なぜわれわれがそうした提案をするに至ったか、その理由とプロセスを正しく理解してもらいたいのだ。
では、第一の提言をしよう。

われわれは、第一に「1,000千万人の移民受け入れ」を提案する。
近い将来で、われわれが真っ先に取り組まなければならないのが、先に述べた人口減少の問題であろう。

報道では、年金の財源がなくなるとか、若年サラリーマンの給与は膨らんだ老人たちを養うことにほとんど費やされてしまう、といった計算ばかりにやや偏り気味ではあるが、ほかにもマーケットの縮小による購買力の低下や土地価格の下落、国際社会での存在感や発言力の薄 れといった変化が予測されている。

日本の人口は2006年をピークに、そこからは毎年約60万人ずつ人口が減少していく。60万人という数字を都 市に置き換えると、だいたい新潟市一つ分、2年で仙台市一つ分ということができるだろう。
つまり、2007年から日本は毎年、新潟市一つ分の人口がボコリボコリと抜け落ちていく計算である。

われわれは人口の自然減にまかせるべきか否か。
選択の時を迎えているのだ。

その一方で野放図に流入する外国人とのあいだには治安問題を含め摩擦が高まる可能性も高く、一定のルールづくりという点からも、一度、きちんと指針を示すべき問題であることは間違いない。

外国人大量受け入れと聞けば即座に反発を覚える読者も多いかもしれない。
少なくとも漠然とした不安を感じる読者がほとんどだろう。
それは、やはり外国人による犯罪の増加や「日本的」な風俗・習慣が失われることを想起するからなのだろう。

だが、現在日本が抱えているさまざまな流入外国人による問題は、むしろ徹底した一つの方針や政策を持たず、建前と しては厳しい入国管理政策を維持しながら現実にはなし崩し的に不法な外国人の流入を容認してきたことに起因するのではないか。

言い換えれば、これまで積極的にコミットしなかったが故の弊害とも考えられるのだ。
門戸を大胆に開く一方で、従来とは画然と違う体制で出入国を管理し、不正な流入を一切排除する。
ただし、正式な ルートを通じて受け入れた外国人に対してはきちんとしたサポート体制を整える。
つまり、曖昧で一貫性を欠いた従来の移民政策に、目に見えるメリハリを持た せることをその最低条件とすべきだと考えられる。

<起爆剤としての外国人>
これまで日本をめざして密航を試みた外国人は、犯罪目的の者を除いてそのほとんどが単純労働に従事していた。
そして、一般の日本人の意識のなかにも、町工場や飲食店で働く外国人のイメージが強い。しかし、われわれが提案する移民構想で、ターゲットとしている外国人は、人手不足や若者が嫌う仕事を外国人で補うといった発想からではない。
求められるのは、日本経済の牽引車となりうる人材なのだ。
その意味では、「高学歴者」や「専門性がある」といった漠たる基準ではなく、たとえば自動車産業のこの技術に関する人材とか、ゲームソフトのプログラマーや企業再建の手腕を持ったスペシャリストというように、きわめて具体的かつ明確なビジョンに基づいて、戦略的な移 民の受け入れを実施するべきだろう。

一部では、日本社会のホワイトカラーの生産性の低さが話題になっているが、日本のホワイトカラーを刺激して活性化させるという作用も、この移民受け入れ構想は期待しているのだ。
また、日本人の弱点ともされる「起業」においても、外国人プレーヤーの参加は大きな起爆剤の役割が期待できる。

優秀な人材が海外から移り住み、日本で事業を起こして成功させる。そうなれば当然そこには雇用も生まれる。大切なことは、こうした移民起業家たちが、最終的に日本に定着してくれるのかどうかであろう。

残念ながら、現在の日本に対する外国人の評価、とくに高い技術を身につけた外国人の評判はけっして芳しくない。その理由の大きなものの一つにこんな問題がある。

「日本では平等にチャンスが与えられていない」。技術や努力がきちんと報われないという意味でもあり、本当の競争原理が働いていないという意味でもある。
これまでも多くの留学生を受け入れているにもかかわらず、日本で話題になる外国人企業家もほとんどなく、概して留 学生の評判も悪いのが日本の現状である。一方、アメリカなどでは、中国人やインド人を中心に多くのサクセスストーリーが生まれ、一般にアメリカでの定住を 望む留学生が多い。
この一事をもってしても彼我の差は歴然であろう。

<衆参二院制を破壊せよ>
じつはこのことは、外国人の不幸である以前に日本人にとっての不幸であることに日本人が気づいていない。
われわれは、「ネオジパング構想」を位置付づけるにあたり、誰もが自己実現できる国という言葉を用いた。
それは、風通しが良く、時代の移り変わりにも敏感に対応できる体制下でなければ実現困難な目標であることは言うまでもない。
第二の提案は、ダイナミックな改革を可能とするための制度の改革である。
ここで、一つ思い起こしてもらいたい。日本にもかつて大量の外国人を受け入れ、飛躍的な発展を遂げた時代があるということを。
細かい説明はここでは省くが、弥生時代には朝鮮半島から亡命者を中心に大量の外国人が日本に流入し、その彼らがもたらした稲作などの技術により急速に発展を遂げたという歴史があるのだ。
いまこそ、風通しを良くすることで外国から運ばれてくる人材や技術によって、金属疲労を起こしている日本の空気を一変させるべき時期なのだとわれわれは考えるのだ。

さて、では改革の中身に移ろう。
われわれは、最初に、現在ある立法府の中身にメスを入れたいと考えている。具体的には、現在の政治システム在り方を見直し、それぞれの役割を明確化する方向で政治家の役割を位置づけたいと思う。
全体として国会議員の数を大幅に減らして、これまで与えられていた役目を画然と分けてしまうことが骨格である。道州制を中核とした抜本的な地域主権国家の形成が基本だが、ここでは中央政府、とくに議会の機能に論点を絞ろう。

法律をつくる「立法院」と行政を監督する「監査院」に二分。
もちろん現在の衆議院、参議院という現在の二院制を壊して、まったく新しい制度を確立するのだ。
とくに、監査委員のほうは人数を最小限にして、ひたすら監査に専念させる。たとえば立法院委員三百名、監査院委員 百名程度。

両者はまったく違う仕事に従事するので、人事的交流もむしろ遮断する。あるときには立法委員として法案つくりに携わり、あるときには政府の仕事を監督するという、矛盾し利益相反を生ずる二役をこなすこともなく、国民から付託された仕事がより明確になるという利点がある。
一方、立法委員はいまよりむしろ旗幟鮮明に政府と歩調を合わせて仕事をすることができる。
世界でも稀な政府・与党の使い分けと曖昧な責任分担はこの際廃止し、政府与党を一元化することによって、議論百出して何も決らないといった現在のような状況は打開できる。

内外情勢が時々刻々激変し、技術やシステムも目まぐるしく変わり、社会や体制がそれに応じて機敏に反応しなければ ならない時代にあっては、阻害要因を早期に除去したり、新たに必要な措置や対策を講じなければならない。
それに順応できる体制作りは必然であり急務だ。

実際、イギリスではこの方式がスムーズに機能している。
だが、その一方で歯止めとなるシステムも不可欠だ。
ブレーキの役割は、監査委員が政府の行う施策を徹底的に事後評価し、政策の効果を検証すること、政府の行き過ぎをチェックすることにより果たされる。

<「ナショナルミニマム」の終焉>
リーダーシップの強化と国民によるチェックの強化を両立する制度としては「首相公選制」の採用も検討に値する。首 相公選を実現するとともに、任期途中で選挙の洗礼を受けるような制度設計を導入すれば、トップはとりあえず自分が目指すべき政策をスピーディーに実現し、 国民にはそれが鮮明に見える。
少なくとも、掲げた目標が部会や国対で妥協を重ねた結果、骨抜きにされてしまうといった問題はこのシステムでは起こりにくいといえよう。

首相はもちろん、大臣や次官・局長など官庁の重要ポストも政治による任命で行うべきだろう。その意味で首相公選 は、首相個人だけでなく政権を担う人材がワンセットで問われることにもなる。
こうした人事制度改革が行われてはじめて鈴木宗男氏問題にみられるような権力 の二重構造、官僚と族議員の結託のような現状が是正されるのである。

また、このシステムは全国自治体にも同時に導入される。自治体の現状からすれば、国政にも増して思い切って議員の数を減らすこともできるだろう。
その上で、監査委員の公選制も考慮すべきである。
我々の構想では、地方と中央は必ずしも同じように発展することを前提とはしていないのが一つの特徴だ。

そこで第三の提案だが、それは、地方の「均衡ある発展」の終焉と呼ぶべき政策だ。地方は必ずしも中央のように発展する必要もなく、地方ならではの特色を全面に打ち出すべきだ。
これからの時代は「ナショナルミニマム」から「ローカルオプティマム」に重点を移していくべきなのだ。
これは、中央官庁の肥大化による機能不全問題と考え合わせると、「分都」というアイデアと奇妙に符合する。
現在、日本の都市は全国どこに行っても平均的で同じような景観となって特徴に欠けている。
金太郎アメと揶揄される 地方都市の無色化である。

地方はいま、地方交付税といゔ援助゛によって、中央との平等感を共有しているが、この歪んだ平等意識こそが地方独自の発展をかえって阻害してしまっていることに、早く各自治体は気付くべきだろう。
補助をあてにするあまり、独力で立つ機会を長期にわたり失ってしまったのだ。
だが、ここにきて地方にも変革の萌芽が見えはじめている。とくに、個人農業事業者のレベルから都会で強く支持されるブランドが生まれている。自主性のなかで独自色を出した事業が認められはじめているのだ。

この新しい動きをサポートするためにも、「ミルク補給」はきっぱり切る必要があるのは当然として、地方には都会とは一味違った、豊かで安らぎに包まれた生活を実現するためのサポートをするべきだろう。
都会で働き、週末は地方のセカンドハウスで過ごしたり、老後には都 会から地方に移りのんびりと暮らすといった2つの人生を設計する暮らしがあってもよいだろう。
さらに、「分都」により地方色はより加速される。
文部科学省を移転した都市には文教の香りが立ち、経済産業省が移転した都市には日本のエンジンとしての活気が生じる。

一案だが、東京には金融市場がある関係から財務省、金融庁を置き、宮内庁と文科省は京都に置いてはどうか。
また、経済産業省や公正取引委員会、特許庁などは「世界のトヨタ」がある名古屋に移転するなど、実現すればそれぞれに特色を生かした街作りができるだろう。

<「ネオ・ジパング」に向けて>
さて、最後にわれわれが提案するのは、産業である。
今後数十年というスパンで日本の牽引車となってくれる幹をどこに置くのか。ズバリ、製造業ではロボット産業に期待を寄せたい。
むろん、生命科学分野やナノテク、新エネルギーなども重要な分 野ではあるが、わが国の機械産業の集積、とくに中小企業を含めた厚みのある裾野産業の底力を活用したロボット産業にこそ次世代の「産業の四番打者」を期待 したい。

ロボットというと人型の機械が量産され出荷される場面を思い浮かべ、非現実的と思うかもしれない。
だが、ここでいうロボットは自動化・無人化を含めた機械のことで、たとえば自動改札機などもこれに含まれる。

自動改札機の普及など日本は自動化では先進国中でも最も進んでいると位置付けられている。
また、人型ロボットにしても、これは近い将来の輸出産業として非常に有力である。
ロボットそのものがハイテク技術の固まりであり、鉄板一枚に至るまで非常に高度な技術の集積であることを考えれば、日本にとても適した産業といえるだろう。
いま一つの期待分野は、ファッション・エンターテインメント分野である。

「失われた十年」にあってじつはわが国の現代文化の発信力は驚くほど高まりつつあることを忘れてはならない。「千 と千尋の神隠し」のアカデミー賞受賞に代表されるようなアニメーション文化の創造、日本の若者のファッション、日本古来の伝統文化と現代文化の融合などは 「ジャパニーズ・クール」の名のもとに世界的な注目を集めている。俯きがちな日本人であるがもっとわれわれは自らのつくり出す価値に胸を張るべきである。

このことは産業論にとどまるものではない。
ましてや、ファッションやエンターテインメント分野に限定されるもので はない。

都市のありようや景観に、農村の風景や人情に、日本人の生き方・生活様式に、さらにわれわれが日本的な「美」や「粋」を見出していく努力を行え ば、必ずやそれらは世界に日本的なる価値を発信するものとなるだろう。

「ネオジパング」構想、それはわれわれが日本という国と国民が元来持っていた、精神的にも安定した生活様式や広義の文化を取り戻す構想といってもよいかもしれない。

地球環境や資源の制約や、主権国家以外の存在が国際社会の安全の脅威となるような事態の現出のなかで、欧米を中心 とした二十世紀型文明が問い直されている現在。日本と日本人が、自らの文化と生活様式を再確認したうえで、欧米近代文明の長所と課題を見極めて、新たなモ デルを発信すべきときが来た。

● 論座 会社はこれからどうなるのか どうする?会社員   2003.07 論座

● 論座 会社はこれからどうなるのか どうする?会社員   (2003.07 論座)

浅尾 慶一郎(民主党参議院議員)

最近、韓国の中央日報の洪錫炫会長に話を伺う機会があった。
話題は日韓の政治、経済、文化に広がっ たが、一番印象に残ったのはサムソン電子の話だった。彼はサムソンのオーナーの義弟なのだ。エレクトロニクスの世界では相変わらず日本が世界一だと思っている人が多い。
しかし、株式時価総額で比較するとサムソン電子はソニーと肩を並べ、一社で日立製作所、東芝、三菱電機、NEC、富士通5社の時価総額の合計に匹敵する。
かつて日本が強かった半導体や液晶の分野で今、世界第1位の座にあるのはサムソンなのである。

彼の言葉の端々から伝わってきたサムソン成功の最大のカギは、まず日本の技術を世界一と認めて、その技術を導入した上で、経営については徹底して米国流を貫いたことだ。
97年IMF危機に見舞われた際は、従業員を3割減らし、残った従業員の人件費も3割削減した。同時に必要と見込んだ技術者は外国人であっても高賃金で採用した。

そして、3カ月先に売れると睨んだ商品にすばやく経営資源を集中投下し、結果として従業員 一人当たりの売上高で日本の同業他社の3倍近い数字を実現したという。

日本でも大胆な改革により変身を遂げる企業が現れてきた。
すでに広く知られているが、日産自動車はゴーン社長の下で調達価格を3割削減し、工場の閉鎖も行った。
一方で、開発部隊には思い切って経営資源を投入すると同時に、社内からのボトムアップの情報収集にも努め部 門横断的に情報を共有することで、売れる車の開発に成功し、利益は大幅に増えた。

さらに、あまり知られていない意外なことだが、日産への部品を納入してい る企業の親しい経営者によれば、調達単価の削減にもかかわらず、彼らの会社でも利益が伸びたという注目すべき結果をもたらしたのだ。

長引く経済の停滞。これが今、最大の政治課題であることは言うをまたない。いまだ出口は見えないが、解決策は必ず 見つかる。
不況下でも改革により業績を伸ばす、こうした企業の存在がそれを示している。改革に成功した企業にはいくつかの共通項がある。
確固たる経営の方 針と意志。思い切った業務改善と重点分野への大胆な経営資源の投入。そしてスピード。グローバルな競争環境が企業を取り巻く以上、遅かれ早かれ多くの会社 経営者は方向転換を迫られる。

現在の日本経済の低迷はわが国の基礎的な技術力に起因するというよりも、むしろ企業経営のあり方にある。だから、今後はそうした経営方針を採りやすくする法制度の改正も行われるだろう。

既に、商法の改正や確定拠出型年金制度創設等いくつかそうした事例もある。

では、会社員はどう変わるべきか?

まず、自分の能力をしっかりと客観的に認識することが一段と大事になる。
経営の目標達成に向けたスピードが増せば、即戦力を求めて専門的な能力を持つ人の中途採用が盛んになる。
雇用市場が活性化する。市場での自分の相場を常に意識し ておかなければならなくなるだろう。
もちろん、今の処遇より、条件の良い勤務先を見つける可能性も広がる。サムソンでも多くの日本人技術者が働いており、年収が3倍になった上に、韓国政府の優遇策で所得税免除の恩恵にあずかっている人もいるという。

終身雇用制がゆらぎ「就社より就職」という指向が強まれば、日本の会社特有の、その会社でしか使われない言葉や仕事の進め方の重要性は次第に薄れる。
語学やその他の専門的な能力の向上に誰もが力を注ぐ。
会社内の権限と責任が明確になり日本の会社の良い点であった、誰 もが会社全体の戦略を論議することは少なくなるだろう。
先日、オランダの会社に転職した興銀時代の友人から、その会社の役員の半数をオランダ人以外が占め、社内言語は英 語であると聞かされた。
ドイツの国際企業の駐日代表によれば、ドイツでも同じ状況が見られるという。非英語圏でも国際的に競争する企業は、社内の国際化が 進んでいる。日本の会社はまだまだ日本人が中心で、日本語が当たり前だが、国際企業では早晩、多くの外国人が役員に登用され、情報を共有するため英語が 「公用語」にならざるをえなくなる。

こうした変化の影響を特に受けるのがホワイトカラーだ。これまで、日本のホワイトカラーの生産性は、ブルーカラー に比べて低いといわれてきたからだ。
今後、研究者は他社がまねできない新技術をますます短い時間で開発するよう求められるし、営業職は売り上げの飛躍的な 増加を迫られるだろう。

今まで合理化とは縁が最も薄かった管理部門のホワイトカラーは生産性の向上を一番要求されるはずだ。
これからの中間管理職の役割 は、日本の組織の強みであったボトムアップの情報伝達を、素早い経営意志決定を可能にするトップダウン型のマネジメントと融合させる形で生かすいことにある。
換言すれば、職場の情報を上(経営の意志決定者)にも横(組織横断)にも伝えることで結果として組織の生産性向上に目に見える形で貢献するのがこれか らの役割なのだ。

●さようなら小泉流改革 経済再生の構想は我にあり   平成15年4月

●さようなら小泉流改革
経済再生の構想は我にあり 平成15年4月

小泉政権への支持が揺らいでいる。
しかし、情緒的な批判や、個別課題についての論難だけでは、停滞感が深まるばかりだ。
新時代に向けた政策を切り拓こうとする民主党若手グループが、自らの構想を提示し、小泉政権との訣別を宣言する。

<民主党・政策フロンティア研究会>

浅尾慶一郎
大塚耕平
福山哲郎
松井孝治
松本剛明

失われた10年と呼ばれる90年代から今日に至るまで、あらゆる経済主体が自信を喪失した。
日本的経営によってわが世の春を謳歌していた大企業は、 自己のビジネスモデルを見失っている。
かつて、「自分たちこそが高度経済成長を牽引してきた」という強烈な自負を抱いていた官僚組織も、相次ぐ不祥事と政 策の失敗、そして失政の責任を取らない自らの卑小な行動によって、その権威を完全に失墜させてしまった。
政治家の多くは、相変わらず利権の追求にかまけている。
国民のだれもがこの国の行く末について明るい希望を抱けなくなってしまっている。

そうした中、改革を恐れぬ政治的意思を誇示して登場した小泉首相に対し、多くの国民が期待を寄せたのは無理からぬことであった。

率直に言って、政権発足当初、与野党を問わず、志を共有する多くの議員が、小泉改革の意気込みを評価し、その実現に強い期待を寄せていた。
それは、小泉政権が目標とする社会像を提示し、現実の社会がその目標へ至る道筋を政策体系の中で示すことへの期待であり、その前提として、目標実現の障害、すなわち、古き自民党的体質の打破に「強い意思」を有することへの期待であった。

政・官・業癒着の国家社会主義的思想に基づく土建国家的経済運営を断ち切り、欧 米が80年代に行った新自由主義的改革が遅まきながらこの国でも行われるという期待が、国民各層に浸透した。

わが党内でも、仮に自民党内の抵抗勢力がかか る改革を妨害するならば、小泉内閣に協力することもやぶさかではないという空気すら充満していた。

<見かけだおしの改革者>
しかし、現実の小泉首相の言動は、日に日にその期待と乖離していった。
テレビ中継やニュース番組で国民の目に映る小泉首相の姿は、小泉純一郎という政治家のごくごく一部にすぎない。

実際に国会の場で働いている私たちが 目撃している小泉首相は、専門知識に乏しく、自身が関心を有する特定の分野ですら極めて大雑把なことしか語らず、語れず、各論は常に官僚任せの哀れなものである。

小泉政権は、今日に至るまで、改革のメニューを並べることはあっても、その先にめざすべき国家像を示すことはついになかった。
理念や哲学、改革後のこの国のかたちが一切見えてこないのである。

小泉首相は、実際の改革に向けて汗をかくことも泥をかぶることもなかった。
圧倒的な高支持率に支えられながらも、特殊法人改革、医療制度改革、税制改革、不良債権処理、いずれをとっても自らが泥をかぶるような抜本改革には程遠いものばかりである。

例えば、特殊法人改革のシンボルとされた道路公団問題についても、「民営化組織」の具体的な形態・業務、国の高速道路建設へのかかわりは未定であり、それらを議論する第三者委員会の人選と内容は全て先送りされた。

現実には、改革の成否も含めて政策は道路族の掌中にある。
ほかの多くの特殊法人につい ては「衣替え」か、改革の「先送り」のいずれかである。

医療制度改革についても、利用者のみに過重な負担を押し付け、健康保険制度や薬価制度などの構造問題を先送りにするものである。

総裁選の公約である首相公選制の導入に至っては私的研究会に検討を依頼したきりである。

勇気ある構造改革派を標榜したはずなのに、いざ実行段階になると改革に抵抗する旧来勢力、日本を堕落させた勢力との中途半端な妥協を繰り返し、あく まで抵抗勢力との相対関係で自らを改革主義者として国民に印象づけることに腐心する、見かけだおしの改革者、残念ながらそれが小泉首相の正体だった。

小泉改革の遅さを指摘したルービン元米国財務長官に対して、小泉総理は「自分は政権について一年足らず。改革には時間がかかる。もう少し待ってほしい」と発言したと聞く。

いったい、いつまでに、何を行おうとしているのか。そのゴールも示さず、何を待つというのか。
「自民党は着実に変わっている。もう少し待ってほしい」との発言も、鈴木宗男事件、加藤紘一事件を見てのとおり、何を根拠にそう言えるのか、理解不能である。

そもそも、国民にとって、自民党が変わるかどうかは問題ではない。この国が変わるのかどうかこそが重要である。

もはや日本国にも、われわれの世代にも、自民党が変わるのを待っている時間的余裕はない。

小泉改革に対して期待を抱く時期は過ぎた。妥協と先送りの中でツケはいよいよ臨界に達した。局面は変わった。

われわれは、今、立ち上がる。私たちの世代の日本は、私たちの世代で創造するのだ。

<小泉でもなく、亀井でもなく>
では、いかなる考え方で私たちの世代の日本を創り上げるのか。その鍵は、ポスト新古典派的改革である。
あえて誤解を恐れず断言する。もはや、単純な 「小さな政府」では、今日、わが国が直面する問題は解決し得ない。
われわれは、政府自らは何事もなさないという市場原理主義の立場には立たない。
ブッシュ 大統領は来日時の国会演説の中で、「競争は倫理である」として小泉政権を礼賛したが、今、われわれが見直さなければならないのは、まさに「競争こそ全て」 という米国型市場原理主義である。

では、われわれは自民党抵抗勢力と手を組もうとしているのか。

答えは無論「ノー」である。

われわれは自由主義的改革を否定するものではない。
むしろ既得権益でがんじがらめになっているわが国の現状を打破するための「健全な競争」の徹底には賛成であり、「景気対策」の名を借りて「健全な競争」を阻害し、既得権益の擁護を図る勢力とはあくまでも闘い抜く決意である。
今日まで繰り返されてき た、需要喚起のための赤字国債発行による安易な追加的財政出動は、意味を持たないばかりか、脆弱な財政基盤をさらに危機的状況に追い込み、日本経済の破綻 リスクを高めるものである。

しかしながら、今日の社会経済環境を考える際、消極的な小さな政府や供給サイドの改革のみでは不十分である。
アダム・スミスは「神の見えざる手」が 経済の自律的均衡を実現すると指摘したが、現在の日本はアダム・スミスの生きた18世紀とは根本的に異なる、複雑な問題を有している。例えば街角や公園 で、主婦やサラリーマンに今の生活の何が不安・不満か尋ねたときに、どのような答えが返ってくるだろうか。不景気に伴う将来不安とともに口々に語られるの は、住宅環境への不満、教育やいじめの問題、食品をめぐる安全性の問題、アトピーや花粉症など免疫性疾患とその原因となっている環境悪化などである。こう した問題は消極的政府による自律的均衡では解決し得ない。

そこで、改めて問いかけよう。政府はだれのものであり、何のために存在するのか。言うまでもなく、政府は国民の代表であり、国民の厚生と幸福の最大 化のために存在する。今、日本に必要なのは、「この国の経済活動と国民生活に、どのような要素が不足しているのか、国民の幸福のためには何をなすべきなの か」という点に関して、政府が自らの意思を明確に示すことである。

政府は、国民経済を素朴な「神の見えざる手」に委ね、自らの責任を放棄してはならない。いわんや、国家、国民を、利権に群がる「魔の手」に任せるこ とがあっては断じてならない。
政府が「強い意思」をもって国民経済の方向づけを行い、「価値の手」を差し伸べる時を迎えている。
今必要なのは、政府の「強い意思」である。民意を反映した政府の明確な「価値判断」である。

このような基本認識に立ったうえで、従来の価値観や伝統的政策手法にとらわれない、発想の転換や政策手法の変更が必要である。
過去の因襲を大胆に突 破することが、日本経済の危機脱出と再生のための必要条件である。「新しい局面」には「新しい政策手法」へのチャレンジが欠かせない。

つまり、われわれ は、政策の「フロンティア」をめざさなくてはならないのである。

以下では、従来型の供給サイドの経済政策の発想にとらわれることなく、この国の経済活動と国民生活を改善していくための処方箋について、当事者意識を持った具体的な政策提言を試みよう。

<「住宅、教育、環境」で消費不況を打開せよ>
デフレ対策のためにインフレを起こせという「インフレターゲティング政策」をめぐる議論が喧しいが、ここで、われわれは「消費ターゲティング政策」 とも言うべき政策フロンティアを提示したい。
GDPの6割を占めるのは消費である。
消費の回復なくして日本経済の再生はない。デフレスパイラルを発生させ ている最も大きな原因は、国民が本来有する消費余力が十分に顕現化していないことである。

つまり、消費意欲が減退しているのである。

国民生活の質を向上させ、眠っている社会需要を掘り起こし、現在の消費不況の打開につながる政策フロンティアは何か。

良質な住宅ストックの蓄積、将来のわが国を支える人材の育成、環境保全に寄与する循環型耐久消費財の生産、わが国の先端科学技術を伸長させるような 国産先端製品への需要拡大など、社会的に好ましい財やサービスの消費を促進するような「消費ターゲティング政策」をめざすべきだと考える。
もはや物が満ち 溢れた中で拡大するのは、住宅や環境、教育など、人間に豊かさを提供するものである。
生活の豊かさの基盤は住宅にある。だからこそ国民の多様なニーズを反映すべきである。
ライフステージに応じて、良質な住宅に居住できるような政策が 求められている。単純な持ち家促進政策、そのための宅地造成を大前提とした住宅政策、及び、そうした住宅政策を基盤とした景気対策のための住宅投資減税等 の過去の政策パッケージが、もはや陳腐化してしまったことは明らかである。
持ち家を持つことのみが人生の究極的目標といった価値観を国民に強要することなく、バラエティーに富んだ住宅が確保できるような政策をめざすべきであろう。良質な賃貸住宅の供給やセカンドハウスの取得を促進するような住宅ローン利子 控除制度、リバース・モーゲージ、米国に比べて十七分の一の規模である住宅流通市場の整備、拡充を早急に行うべきである。

個人資産の大半を半永久的に住宅 に固定することを改めれば、消費余力は高まってくるはずだ。

教育・人材の育成が国家百年の大計であることは論をまたない。しかし、もはや国家が一元的にキャッチアップ型の教育を押し付ける時代ではなく、子ど もたち一人ひとりが自ら目標を見いだせるプログラムが教育に組み込まれていなくてはならない。学校経営の多様化や教育バウチャーの導入により、選択可能な 教育制度を再構築していくことが必要である。

一方、家計の教育負担の重さが、子を持つ働き盛りの30代、40代、50代の世代の消費意欲を減殺していることは明らかである。教育費用の所得控除も含め、負担軽減を図ることが急務であろう。
これに対し、社会の役に立つことをしたい、次世代の育成のために貢献したいと思っている国民は、決して少なくないと思われる。こうしたニーズを連結 することこそ、これからの政府が追求すべき政策フロンティアと言える。教育投資奨学基金を創設し、基金への寄付金に対しては大胆な所得控除を行い、個々の 家計にかかる教育コストを基金が代替していくような仕組みは考えられないものか。いわば、国内版フォスタープランである。

こうした制度の創設を通して、個人の多様な能力の開花を促し、次代を担う人材を育成することが可能になる。これは同時に、自己実現支援産業とも呼べる新しい産業群の創出にもつながるだろう。
なお、公教育の学校施設の荒廃・老朽化も目に余る。四年後に教室当たり二台のコンピューター導入という政府目標の大幅な拡充とともに、かつて軍事教練の目的を兼ねて作られた土の校庭を、子どもたちの健康と感性を育む芝生の校庭へと一日も早く造り替えるべきである。

環境政策についても同様である。将来世代に持続可能性のある地球とその生態系を引き継ぐことは、政府の強い意思によってはじめて実現できる。市場主 義者は経済効率を重視するため、環境問題を解決するための規制や税制の活用を拒否し、市場に解決を委ねてしまう傾向が強い。しかし現実には、環境問題は、 受益者の特定が困難で、現在から未来の世代にわたって広範囲に課題が存在する。市場では問題解決が困難な性格を有しており、政府の強い意思が必要なのであ る。

単に従来型の地球環境保全にとどまらず、国民に安全な「食」と「住」の環境を確保することも政府の最も基礎的な任務のひとつである。シックハウス症 候群などに見られるここ二十年来の免疫性疾患の広がりは、われわれ人類の自然への過剰な侵食に対する一種の反作用とも考えられる。次なる二十年を自然回 帰、環境復元に向けて、国家のみならず、国民の意識変革期間としなければならない。

「環境問題と経済成長は相反する」という古いパラダイムを脱ぎ捨てれば、新たに拓かれる市場は限りなく大きい。家庭用燃料電池の開発、風力発電・太 陽光発電等の再生可能エネルギーの活用、省エネ住宅、電気自動車のさらなる普及、水質浄化など、国民一人ひとりの生活の安全を確保する需要の創出を喚起す るとともに、環境基金の創設やグリーン調達の促進、食の安全確保への国民的運動を加速させていくことが必要である。

住宅政策、教育政策、環境政策、この3つが政策フロンティアの道標である。方向性なき前進は、日本国民を遭難させることにつながりかねない。あれもこれも追求する総花的政策ではなく、めざすべき方向を見定め、政策の新地平を開拓することが必要なのである。

<10年計画で消費税改革>
上記のようなミクロ的な政策によって住宅ローン返済や教育費負担による重石が取り除かれれば、本来、最も消費の旺盛な世代であるべき30代、40 代、50代のサラリーマン世帯の消費は回復に向かうだろう。それは、マクロ的な需要拡大にもつながるはずだ。
マクロレベルでの消費回復のために、切り拓くべき重要な政策フロンティアはほかにもある。税制インセンティブの活用である。

これまで消費税を何パーセントにするか、その水準についてさまざまな議論が展開されてきたが、税を動かすダイナミズムにも着目することが必要である。
われわれは、ここに、消費税の短期的(時限的)引き下げと中長期的引き上げのカップリング政策を提案したい。

そもそも、今日の不況や金融不安の遠因は、橋本政権時の消費税引き上げに遡ることができる。消費税の無原則、思慮不足の引き上げをいったんご破算に し、もう一度、ゼロベースで考え直すことが必要である。
後に述べる「不良債権処理=ホスピタル政策」は短期的なデフレ圧力を増すことになるが、そうしたデ フレ圧力を緩和するためにも、マクロレベルでの消費刺激を企図した消費税政策を検討してみる価値はある。

具体的には、速やかに消費税率を橋本政権失政前の3%に引き下げ(2年間程度)、その後、福祉財源化することを明確にしたうえで、6年程度の間に 10%レベルまで段階的に引き上げる。あくまで減税と増税をパッケージにし、将来の段階的引き上げまでを国民に約束する「消費税改革10年計画」の提案である。
われわれはこの改革により、短期的には減税効果と増税前の駆け込み需要喚起によってマクロ的に国民経済の消費行動を刺激するとともに、中長期的な税 制改革と財政構造改革、さらには高齢社会対策の充実を図ることが可能になると考える。

<銀行の「強制入院」で安心感を回復>
金融危機を契機に日本経済がメルトダウンする恐れが現実的なものとなっている。金融危機を克服し、健全な金融システムを復元する唯一の手段は、銀行 を強制入院させる「ホスピタル政策」である。「病んだ人(銀行)は入院している。外を歩いているのは健康な人(銀行)ばかりだ」という虚構を、国民はもは や全く信用していない。「この際、全員人間ドックに入り(徹底的な検査と経営再建計画を実施し)、健康になった人だけが退院する」という風景を提供するこ とが、国民の安心感につながる。

全ての銀行に対して徹底的な検査を実施し、債務超過に陥った銀行は一時国有化する。いや、債務超過に陥った銀行のみならず、この際、金融産業全体を 一時公的管理下に置くことの検討すら、決して過剰な対応とは言い切れない。
そうした対応をとることによって、はじめて、本当の意味で厳格な検査を行えるの ではないか。すなわち、金融機関を入院させ、診断し、治療と手術を施して、健全な体質と体力を備えた状態で社会復帰させるという大胆な政策が必要である。 換言すれば、市中で営業する民間の銀行は健全な銀行だけという安心感を、内外の投資家や預金者に与えることが必要である。

また、日銀の政策手法の転換も必要である。もはや、現在の金融緩和政策の延長線上では、企業金融市場の逼迫を改善することはできない。ホスピタル政 策を通じて間接的に企業金融の円滑化をめざすことにとどまらず、一時的ではあれ、日銀によるCP、手形、社債の直接購入といった、企業金融市場によりダイ レクトに影響を及ぼすような非伝統的な手段も検討の視野に入れざるを得ない。
そのほかにも、中小企業の債務の株式化と銀行等保有株式取得機構による株の買い取り、第二店頭市場の創設など、めざすべき政策の裾野は広い。

なお、現状の構造不況が継続すれば、ホスピタル政策の究極の姿、すなわち、国家経済そのものの入院の懸念も生じてくる。すでにIMFやOECDは警 告を発している。その場合、預金封鎖やデノミ(新円切り替え)といった望まざる政策にもチャレンジする必要性が生じるかもしれない。

もっとも、こうした究極の荒療治によって、100兆円超とも言われるアングラマネーが顕現化し、それらに然るべき税を課すことによって、財政再建にも大きく寄与する可能性も存在する。

<民間経済再生のためのインフラを>
われわれは供給側の改革を不要としているわけではない。すでに一部紹介してきたように、政策フロンティアの拡大のためには、供給側の改革も必要である。問題はその中身の戦略性である。

90年代の米国の繁栄は、10年越しに顕現化したレーガン税制の効果と、クリントン政権の「エンタープライズ経済政策」の成果と言われている。すな わち、クリントン政権は、単純な供給能力削減による需給バランス調整や企業投資減税等を行ったのではなく、全ての企業が等しく利用できる産業基盤(社会イ ンフラや通信インフラ)の整備に成功したと言われている。
日本も、こうした面は真摯に参考にしてみる必要があろう。  
国際経営開発研究所(IMD)が発行する「世界競争力年報2001」での日本の立地魅力度ランキングは、製造拠点としては25位、研究開発拠点では14 位、サービス・経営拠点としては29位である。ちなみに、シンガポールは、それぞれ、1位、3位、3位。米国は、2位、1位、1位である。このように先進 国中極めて劣悪である国際投資環境を真剣に改善していくことも、われわれが考える政策フロンティアそのものである。
規制緩和による高コスト構造の是正、思 い切った投資インセンティブの付与、ハブ空港・港湾などナショナルインフラ整備の推進を、政府として明確に位置づけることが急務である。

環境、エネルギー、バイオ、ナノ・材料、ITなどの戦略分野を定め、研究開発、人材育成、起業支援などを通じてこれらの分野を日本経済の成長エンジ ンとして活用することが極めて重要である。その際、戦略的な研究開発体制を作るとともに、政府系機関の人件費に消えていく従来型の研究開発費ではなく、民間部門に対してしっかりと予算が流れる仕組みを構築することが不可欠である。

同時に、供給過剰の産業界に対して思い切った産業再編、経営資源の選択と集中、特に、日本企業におけるマネジメント能力の高度化やリスクマネーの還流のシステムを作ることも避けて通れない。

<公的部門のワークシェアリングは一石三鳥>
既述のホスピタル政策やエンタープライズ経済政策を実践する過程では、一時的に失業率が高くなることも想定される。
労働力の抜本的な再教育プログラムと拡充された失業保険の財政的な裏づけとして、等しく各産業セクターで痛みを分かちあうことを提案する。

最近、「ワークシェアリング」が政策論議の俎上に上ることが多い。本来のワークシェアリングは、正社員もパート社員も時間当たりの労働費用が等しく なければ正しく機能しないはずである。
しかし、わが国においては、両者の間に、社会保険料負担も含めて、かなりの待遇格差が存在する。さらに、間接部門で は、長時間に及ぶサービス残業が行われることも少なくない。
そうした職場にこの制度を直ちに導入することは容易ではないが、障害を乗り越えてワークシェア リングを実現することによって、可能な限り多くの人々の間で痛みを分かちあうことが、社会的な要請と言えよう。

その際、ポイントとなるのは、現在、産業セクターの中で最も平均賃金が高い公的部門の扱いである。
国民経済計算年報によれば、一人当たり雇用者所得は、公務員が1,018万円であるのに対し、日本で最も国際競争力が強い自動車を含む輸送機械部門は629万円にとどまっている。失業率が一時的に高くな る期間には、公的部門の勤労者の残業削減や一部賃金の削減により、30兆円を超える総人件費を引き下げることが必須である。仮に一割削減するとすれば、創出される財源は3兆円を超えることになる。

この財源を活用することにより、追加財政負担なしに、従来の公的セクターでは不十分であった公的サービス、例えば、森林間伐や補助教員の採用など、 新たな社会需要に応えることも可能になる。行財政改革と、環境・自然保護、教育など、新たな社会需要の創出、新規雇用の創出という一石三鳥の果実を得るこ とができるのである。

<求められるのは「政府の強い意思」>
われわれが開拓すべき政策フロンティアは、道なき荒野であると同時に、無限の可能性を秘めた豊かな原野でもある。単純な市場原理主義に与する政府 や、「魔の手」の誘惑にとらわれている古い政治家を背後に打ち捨て、この原野を切り拓こう。それを担うのは、われわれの世代以降の新たなタイプの冒険家で なければならない。
こうした道を歩むうえで不可欠なのが、政府の「価値欲求」を明確にすることである。「価値欲求」とは、高名な財政学者、マスグレイブ博士が用いた用語である。元来「政府が実現したいと思っている方向性」とも言うべき概念である。

ここでわれわれは二つの意味で、「価値欲求」という言葉を使いたい。ひとつは繰り返し述べてきた「政府の意思」という意味。マスグレイブ博士の原義そのものである。

いまひとつは、「政府の意思」は、既得権益を有する一握りのグループの利益の反映で形づくられてはならず、あくまで国民一人ひとりが求めている「価値」、言い換えれば民意の集積でなければならないという点である。

政府の「価値欲求」、国家ビジョンが明確にならない限り、政治は常に調整の世界に踏みとどまり、いったん陥った悪循環の罠から抜け出すことは困難である。
それが歴代の「改革標榜政権」が繰り返してきた失敗であった。

今、国民は、政府がいったいこの国をどうしたいと考えているのか、その「価値欲求」を知りたがっている。政府には、逆に、国民がいかなる社会を求め ているのか、日々の生活で何を不満・不安に思っているのか、真摯に国民の声に耳を澄まし、それに基づき「政府の意思」を形づくり、国民に示す義務がある。

そのうえで、政府には、「価値欲求」に従った政策を断行する勇気が求められている。
政策とは行動である。行動は結果を創造することである。そして、責任ある行動と結果の創出から、政府に対する、そして、政治に対する信頼が生まれるのである。

われわれは、今、国民の「価値欲求」を胸に、勇気を奮って新たなフロンティアに歩みだす。

さようなら、小泉政権。

●浅尾慶一郎(あさおけいいちろう)
38歳。参院議員、当選1回(神奈川県選挙区)。東大法卒、スタンフォード大MBA。日本興業銀行副調査役。現在、党青年局長。

●大塚耕平(おおつかこうへい)
42歳。参院議員、当選1回(愛知県選挙区)。早大政経卒、同院卒(博士)。日銀政策委員会室調査役。現在、党政調副会長、国対副委員長。

●福山哲郎(ふくやまてつろう)
40歳。参院議員、当選1回(京都府選挙区)。京大大学院法学修士。大和證券、松下政経塾政策室長。現在、党政調副会長、地方組織局長。

●松井孝治(まついこうじ)
41歳。参院議員、当選1回(京都府選挙区)。東大教養卒、ノースウエスタン大MBA。通産省室長、政策研究大学院客員教授。現在、党幹事長補佐。

●松本剛明(まつもとたけあき)
42歳。衆院議員、当選1回(兵庫県11区)、東大法卒、日本興業銀行副調査役、防衛庁長官秘書官。現在、予算委員、党国対副委員長。

●特集 中国最先端 現地ルポ大特集 驚異のIT長者訪問記  平成14年4月 文藝春秋

●特集 中国最先端 現地ルポ大特集 驚異のIT長者訪問記
(平成14年4月 文藝春秋)

中国におけるIT産業の急伸ぶりには、驚嘆させられます。2002年度、IT産業のハードウェア(パソコン本体と液晶パネルなどのディスプレー、プ リンター、モデムなどデバイス機器を含む)生産部門では、中国は日本を抜き、米国についで世界第2位に躍り出ました(台湾経済部のシンクタンク資訊工業策 進会調べ)。
具体的な数字で比較すると、年間生産額315億ドル(約3兆7,800億円:1ドル120円換算、以下同)だった日本に対して、中国は、352億ド ル(約4兆",240億円)。ざっと4,440億円もの差をつけられたことになります。同じくパソコン本体の国内出荷台数を比較すると、日本が年間 1002万台だったのに対して、中国は、1,100万台(日本電子情報技術産業協会調べ)。
こうしたパソコンの急速な普及を背景に、中国でのインターネット利用者数も急増しています。

昨年末の段階で、中国のネット利用者数は、5,910万人に達したと報道されました(平成15年1月17日付上海デーリー紙)。日本の利用者数は、 5,593万人(平成14年度版情報通信白書)ということですから、ネット人口でも、中国が日本を凌駕してしまっているといえそうです。比較的得意とする ITの分野においても、絶対数において中国に後れをとってしまった日本。めざましいまでの発展を続ける

中国との差はどこから出てきたのでしょうか。

<エリート中の超エリート>
昨年12月23日、私は、中国を視察しました。その際、ITの最先端を走る企業を見学、その最高経営責任者(CEO)に面談する機会を得ました。その所感とわが国IT産業に関する私の見解を述べたいと思います。

中国を訪問するのは2年振りの私ですが、たった2年の間のその変貌ぶりには舌を巻きました。いまだに社会主義の看板を掲げているとはいえ、市場経済に開放された経済特区では、オフィスビルが林立し、そこには日本や米国と変わらない企業戦士の姿があります。
北京市内では、以前はあまり見かけなかった高級車ベンツを何台も見かけました。数倍に増えた、という印象です。中国の自動車にかかる関税率は100 パーセント。すなわち、ドイツで1,000万円するベンツは、中国では2,000万円支払わなければ購入できない。にもかかわらず、相当数流通しているの は、数多くの金持ちが存在している証左でしょう。実際、日本の長者を上回る資産家が出現しているのです。

一方で、中国の労働者の平均月収は1~2万円、国家公務員の給与が月4万円前後とされています。当然のことながら、ベンツに乗る個人経営者とこうした労働者、公務員との貧富の差は格段に大きくなっています。

私は、中国の体制そのものが、自国のIT産業を世界第二位に押し上げた原動力の一つではないかと考えています。
中国のIT産業は、北京市の西北にある中関村に集中しています。ここにあるIT関連企業は、4,000社に達し、技術者だけでも38万人を擁しています。

「中国のシリコンバレー」と呼ばれるゆえんでしょう。ここには、清華大学、北京大学など60を超える大学と、中国科学院など213の研究機関も設立されています。すなわち、産学協同でIT産業に取り組んでいるのです。

今回、私が訪問した企業は、その中関村ではなく、北京市内にオフィスを構えていました。北京市の建国門内大街という大通りに面したビルの15階に私 の目指す「捜狐」(Sohu.com)がありました。フロアの広さは、参議院議員会館の半分くらいでしょうか。室内は、パーティションで仕切られ、男女社 員は思い思いの服装で、パソコンに向かうなど仕事をしています。従業員は200人とのことでした。

役員室は、それぞれ個室で、20畳くらいのゆったりしたスペースが取ってあり、CEO室も同様でした。

CEOの張朝陽氏は、ジャケットにノーネクタイというこれもフランクな服装で現れました。

名刺を交換すると、その裏側には、Charles Zhang PH.Dと、あります。聞くところによると、MIT(マサチューセッツ工科大学)の大学院を卒業、物理学の学位を取得した博士なのだそうです。
張氏は、1964年生まれ。今年39歳で、偶然ですが私と同い年でした。
会社が公表している張氏の経歴書によると、98年10月、『タイム』誌が企画した「世界のサイバーエリート、トップ50人」に選出されたほか、平成13年、『中国青年報』の選ぶ「IT大風雲人物十傑」や、『財富』の「世界の新起業家25人」などに取り上げられています。
彼の経歴から推察するに、彼の中国での位置は、「突然出現したIT界の風雲児」ではなく、「エリート中の超エリート」といったところでしょう。清華大学の物理学出身というだけで、中国ではすでに十分なエリートなのです。

米国には、1986年以来9年間在住したそうで、当然のことながら自在に英語を駆使できます。そこで英語での対談となりました。張氏には、会社の概 要からうかがいました。「捜狐の創立は、1996年です。それに先立ち私は、インターネット・テクノロジーズ・チャイナ(ITC)というネットのインフラ (基盤)整備をする会社を立ち上げていて、捜狐はそのディレクトリ・サービス(管理提供)をおこなっていたのです。そのうち、インフラよりも、コンテンツ (内容)の方が需要があることに気づき軌道修正しました」

<進む米中の交流>
捜狐の資料によると、張氏は、94年、MITアジア太平洋地域連絡責任者に任じられています。

この事実から推察されるのは、彼のMITにおける信頼度と評価の高さです。捜狐を設立するための資金に関しては、コンピュータ科学者で、MITメディア研究所の創立者ニコラス・ネグロポンティ氏や、同じく MIT教授で、投資アドバイザーでもあるエドワード・ロバート氏などが、支援しています。

ネグロポンティ氏にいたっては、捜狐の設立資金として、22万 5,000ドル(2,700万円)を出資しています。
つまり、彼の事業を支えているのは、MIT人脈すなわち米国IT人脈なのです。ちなみに、張氏は、「日本の孫正義さん(ソフトバンク社長)にも出資を打診しましたが、断られました」とのことです。
孫氏は、日本版ヤフーを運営していますが、張氏の捜狐 は、メインが中国版ヤフーともいえる検索エンジンでした。事業内容がバッティングするので、孫氏は断ったのかもしれません。

いずれにせよ、日本からの出資は皆無でした。
ところが、捜狐に対して、「アメリカからは、インテル社などが出資しました。

インテルが中国の企業に投資するのは初めての試みでした」イン テルは説明するまでもなく、パソコンの心臓部CPU生産のトップ企業。米中は政治的には対立することの多い関係ですが、民間レベルでは交流が進んでいるこ とが窺えます。
中国では成績優秀な大学生は、留学先としてアメリカか日本を考えます。以前は、東大や京大などが人気留学先でしたが、80年代以降は張氏のようにアメリカを選ぶ人が増えているのではないか、という印象を受けました。

その背景には、こうした人的交流が進みやすいアメリカの文化的背景があるのかもしれま せん。「創業当初、ネット利用者は16万人に過ぎませんでした。ところが、翌年には60万人を超え、98年には200万人、99年には900万人と爆発的 な勢いで増えたのです。これにともない、検索エンジンの需要も急増しました」

中国では、捜狐以外にも検索エンジンを管理運営する企業が、いくつも現れては消えたとか。その決め手は「コンテンツ」だった、と指摘できそうです。

「98年、捜狐は、中国で最初にインターネット・ニュースの検索と配信サービスを開始しました。それまでニュースに関しては、政府が厳しく管理・規 制していたのですが、方針が変わったのです。

中国人民が、『中央電視台』以外のメディアを使って、生のニュースに触れたのは、これが初めてでした」
捜狐には、このニュースセンターのほか、経済産業センター、生活センター、娯楽センターがあり、この四本柱がコンテンツの根幹だそうです。

「当社にとって、画期的だったのは、2000年7月12日、アメリカ・ナスダック市場に上場を果たせたことです」
ナスダックで店頭公開しているのは、日本企業でも数えるほどです。ここに上場するからには、情報開示をはじめとして経営面での透明性が担保されていなければなりません。その点でも、捜狐は、アメリカナイズされた優良企業といえるでしょう。

「上場当初は、赤字でしたが、02年第3四半期(7月~9月)に黒字転換し、今四半期(02年10月~12月)は、総収入が1,060万ドル(12億7,200万円)、利益が190万ドル(2億2,800万円)です」
ちなみに、02年度の総収入は、2,870万ドル(34億4,400万円)。上場以来、10期連続して2桁成長をしているといい、なんとも驚くべき高度成長ぶりです。

「株価に関しては、前四半期一株約3セントだったのが、今四半期には、約60セントになりました。これは世界的にみても高い水準でしょう」
01年度、29パーセントに過ぎなかった非広告収入は、02年になって急伸したそうです。

「前年度比291パーセントと、4倍増を記録しました。大成功した要因は、ショートメール関連商品です。携帯電話や移動端末を利用するものです。海 抜5,000メートルの雪山から登山客が捜狐を使ってショートメールの送受信を行い、これがギネスブックに登録されて話題になったのも、人気を物語る一例 です」
中国では、携帯電話の利用者も猛烈な勢いで増加しています。02年3月の段階で、1億4,500万人と世界第1位でした(中国情報産業省調べ)。昨 年末には、2億人を突破したとの見方が有力で、今後もこの傾向は続くと見られています。そうした携帯電話によるネット需要も見逃せません。

「02年6月時点で、捜狐ネットは、5,000万人余りの利用者を抱え、1日の平均アクセス数は、1億6,000万件を超えています」 中国の人口は、ざっと12億。この人口が中国IT産業を支える原動力ともいえるでしょう。日本と比較すると、10倍も人がいるのですから、それだけ人材も 豊富で市場規模も巨大です。12億の人口のうち、大まかに分けて、9億が農村戸籍で、3億が都市戸籍とみられています。都市戸籍の3割は、ネット利用の潜 在需要層と推測されています。すなわち、9,000万人のニーズが見込めるわけで、捜狐は今後もさらに成長を続けると思われます。

<個人戦と団体戦>
9億人の農村戸籍は、安い労働力の供給源となっています。
彼らは、何年間か都市に出て働く許可を与えられ、期限が来ると地元へ帰ります。日本のよう に終身雇用の慣習はありません。経営者側は労働者に不満があれば、すぐに解雇して、別の労働者を雇うことができます。必然的に、競争が激しくなります。中 国人は、そうした競争社会に生まれながらにして慣れています。これは、経営者にも当てはまります。彼らは、競争社会で培われたハングリー精神とチャレンジ 精神をもっています。

それが、ベンチャースピリットに結びつくようです。

もともと中国人は、独立志向が強く、一生、同じ企業に養ってもらおう、などという発想は持ち合わせておらず、早く独立して、社長になってやろう、とする傾向があります。
こうした特性は、米国を中心として、世界のビジネスモデルへと展開する「グローバルスタンダード」の世の中では、圧倒的有利に働くことでしょう。

こうしてみると、アメリカ人と中国人は、非常に近い思考を持つ、といえそうです。
特に、IT産業などのように、若い芽が次々と育っては淘汰される新 分野では、中国のようにチャレンジャーが尽きない国は、強さを発揮できると思います。
では、それに対抗して、日本のIT産業は何ができるのでしょうか。

日本への留学経験を持つある中国人が語っていたのですが、彼は自分の子供を日本の小学校に入れてみて仰天したそうです。
運動会で「徒競走でビリにな る子はかわいそう」と、大差がつかないように走るメンバーがわざわざ決められる。
「こんなことは中国では考えられません」と、彼は呆れ顔でした。

このような「ぬるま湯」社会では、米中の大国を相手に個人戦を挑んだところで、圧倒的不利は明白です。

ただし、日本は団体戦に関しては強みを発揮できます。その長所を伸ばしつつ、個人戦でも対応できるようにする。
その対策が急務です。

具体的には、成功者をきちんと作るということでしょう。
成功した人をねたむのではなく、賞賛する風土を作り上げる。
それを後押しする意味で、税制面でも考慮する。例えば、直接税と間接税の比率を見直すなどフラットな税制に変えてゆくことが大切だと思います。

情報開示を積極的に 国民への説明責任果たせ。  日経金融新聞    1999年10月27日号

情報開示を積極的に 国民への説明責任果たせ。  日経金融新聞(1999年10月27日号)

<透明性欠く金融監督行政>
想像さえしない組み合わせでの銀行の合併は、金融業界がものすごい速度で変化していることの表れであろう。邦銀も積極的にディスクロージャーする方面に変わってきているし、監督当局も情報開示を求めている。

「国有化」後の内容後退
金融監督行政も邦銀の業務について、はしの上げ下げまで事前に規制する形態から、事後の検査中心のものに変わりつつある。処分の公平性についての議論はあるもののクレディ・スイス摘発のように外貨に対しても臆せずに行動する方向に変化した。

ただ、問題は金融監督行政にアカウンタビリティー(説明責任)が欠ける点である。非常に裁量の範囲の広い概念を理由にクレディ・スイス・ファイナン シャル・プロダクツ銀行の免許取り消し処分をしたが、損失先送り商品を購入した金融機関に対する処分はまだない。
なぜ損失先送り商品の売り手のみが処罰され、買い手が処罰されないかという点について明快な説明がない。

ディスクロージャーに不熱心であると思われる例がある。
国有化された日本長期信用銀行と日本債券信用銀行について、国有化後に発表された決算短信の公表内容は、従来の有価証券報告書ベースから大幅に後退した。
具体的には営業経費の細目が公表されなくなり役務取引状況も発表されなくなった。

参院金融経済特別委員会で私がこの点を正したのに対し、森・金融再生委員会事務局長は「上場有価証券の発行者でなくなったことなどにより、証券取引法に基づく開示義務がなくなったと承知しております」と答弁した。

しかし長銀一行で公的資金を4兆5千億円も使用するのであれば、納税者に対し有価証券報告書以上のディスクロージャーをすべきだ。

法律上の解釈は事 務局長の答弁通りだろうが、積極的に情報開示を行ってはじめて公的資金投入に対する国民一般の理解が得られる。厳しい言い方をすれば、法律通りの運用さえしていれば問題なしという発想そのものが現在の金融行政にふさわしくない。

<契約内容にも不明点>
特別公的管理に移行した長銀と日債銀のアドバイザー起用に不明確な点も残る。金融再生法上、再生委員会は任免した新取締役を通して公的管理を終えさせる責務を負っている。つまり新取締役の債務の一つは長銀や日債銀の民間への売却先を探すことだ。

ところで長銀も日債銀も身売り先を探すのにアドバイザーを雇用した。長銀はゴールドマン・サックス、日債銀はモルガン・スタンレーだ。法律上は新規に取締役に任命された人の責務は身売り先を探すことであるが、アドバイザーを雇うのがけしからんとまで主張するつもりはない。

ただ相当な費用を支払って雇用するアドバイザーであれば、提供するサービスの付加価値についての厳しい吟味が必要。そのためには契約内容の開示が不 可避となる。金融再生法第三条は、処理費用を最小にすべしと規定しているが、契約内容の開示がなければ費用が最小であったかどうかの検証もできない。

再生委は企業の合併・買収(M&A)においてアドバイザーを起用するのは世界の常識と主張している。しかしM&Aのアドバイザリー 業務で最も作業量が多いのは資産査定であり、それを行っていたのは再生委である。今回リップルウッド・ホールディングスに長銀を売却するのに、ゴールドマ ン・サックスが果たしてどのような機能を果たしたか疑問視する声もある。

「国に手数料入らず」
ゴールドマンへの手数料は総額で10億円を超えるとも言われている。結局リップルウッドから国に支払われる10億円がそっくりゴールドマンに渡る計算となる。国に一銭も入らないという声もある。
このような批判をかわすためにも、再生委は将来ではなく、ゴールドマンとのアドバイザリー契約の中身について開示すべきである。日債銀のアドバイ ザーとなったモルガン・スタンレーとの契約も開示すべきだ。
ちなみに、モルガン・スタンレーのテリーポルテ東京代表は筆者の問い合わせに、いつでも当局か らの求めがあれば契約内容を開示すると答えている。

新しい金融行政の確立のために、金融当局は情報開示を積極的に行
い、国民や市場参加者に対する説明責任を果たすことに力を注ぐべきだ。

●新生銀行を「国賊」にしたのは誰だ。   平成12年 文藝春秋9月

●新生銀行を「国賊」にしたのは誰だ 平成12年 文藝春秋9月

上向きかけた日本経済に水を差すことになった、そごう問題。
その背景にある-むしろこの背景にこそ問題の根本が潜んでいるのですが-旧日本長期信用 銀行(現新生銀行)の売却にかかわる疑問点について、7月18日の参議院「金融問題及び経済活性化に関する特別委員会」では議論が紛糾しました。

しかしな がら、いまだ開示されるべき情報は何も明らかにされず、疑問に対する合理的な回答もなされないままになっています。

日本経済がいよいよ岐路に立たされた今日、まず第一に問われるべきは、一昨年に破綻した長銀を生き残らせた意図は何だったのか、ということです。

本来、長銀を潰さない、という政府の判断には、長銀が倒れた時に景気に及ぼすダメージを回避する、という考えが根底にあったはずです。

つまり、長銀 破綻によって融資先企業がバタバタと倒産したら、ただでさえ瀕死状態にあった日本経済は致命傷を受ける。
それなら今税金を大量投入して長銀を生まれ変わらせ、しかるべきところに売って、引き続き融資先企業を支えさせるべきだ、という論理です。

私自身は後で述べるようにこの考えには反対なのですが、百歩譲って、考え自体は認めるとしましょう。
しかし、長銀の譲渡先として、金融再生委員会はこともあろうにニュー・LTCB・パートナーズ(以下NLP)という外資系の投資ファンドを選んだ。これがすべての齟齬の始まりでした。

NLPはオランダの法律に基づいて組織され、リップルウッドをはじめ、メロン銀行、GEキャピタル、トラベラーズ、ドイツ銀行、ペインウェーバーなどそうそうたる顔触れが出資者として名を連ねています。
我々はまず、長銀を買ったのが、資本の論理が100パーセント支配する「外資」の、それも「投資 ファンド」だった、ということを頭に入れないといけない。
その理解なくして何の議論も成立しません。

外資といえど、もしもIBMのような事業法人が長銀を買ったのならば、将来的に日本で展開する他のいろいろなビジネスへの影響を考え、買った銀行の 社会的な評価にも一定の配慮をする、といったことがあるかもしれない。
しかしNLPのような投資ファンドの理屈は、とにかく儲かるか儲からないか、の一点に尽きる。
しかもその利益が明日の1億円なのか、それとも10年後の1億円なのかということを厳しく区別し、緻密な計算に基づいた論理を貫きます。日本で は、損して得取れ、という考え方がありますが、彼らの頭には今、得することしかない。「資本の理論」といえば格好はいいですが、先に得をして、あとで損をしそうになったら、その前にさっさと逃げればいいと思っているのです。
そのために日本経済がおかしくなるようなことがあっても、彼らにとっては知ったこと ではありません。

実際、今回の「新生銀行ショック」の嚆矢となった信販会社大手・ライフの倒産でも、新生銀行はメインバンクとして、自ら倒産の引き金を引いている。 「瑕疵担保特約」によって自分たちの債権はしっかりと保全した上で、会社更生法が適用されるや、身ぎれいになったライフを安く買収しようという動きを見せています。
これは日本人が一般にメインバンクにもつイメージからすれば、到底、納得のできないやり方です。屍肉をむさぼるハイエナ、といわれてもしようがない。

長銀が特別公的管理下にあった昨年3月、当時の柳沢伯夫・金融再生委員長は、「(長銀を)外資系に買ってもらい、日本の金融システムに刺激を与える 存在になってもらうのもいい」と語っています。
なるほど新生銀行は充分すぎる刺激を日本に持ち込んでくれました。しかしショックを与えればいい、というだけで彼らに売ったのだとすれば、それはとんだ見込み違い、なんとも間の抜けたお人好しだったと断ずるほかはないのです。

<倒産は「ホームラン」>
7月26日、大手百貨店そごうに対し民事再生法による再生手続き開始の決定が下され、そごうは事実上倒産しました。
そごうをめぐるドタバタは4月6 日、取引銀行73行に対する総額6,390億円もの債権放棄の要請に始まり、その後の方針が二転三転し、最終的に亀井静香・自民党政調会長の暗躍により債 権放棄要請を取り下げ、民事再生法の適用申請ということになった。

この一連の騒動の中で特にクローズアップされたのが、今年2月の長銀売却の際、売り主である預金保険機構、買い主であるNLPの間で交わされた契約書に盛り込まれた、「瑕疵担保特約」です。今ではこの言葉が新聞に載らない日はありません。

長銀から引き継いだ融資先企業が債権不能、倒産などということになると、当然債権の価値は下がる。その際、損失が2割未満であれば新生銀行がかぶる が、2割以上の場合、新生銀行はその債権を預金保険機構に買い取らせることができる。
これが瑕疵担保特約の概要です。
会社が傾いて債権の損失が2割未満、というのは通常考えにくいので、これは事実上、融資先に何か問題が起これば、国が新生銀行の損失を補填しましょう、という契約に他ならない。

瑕疵担保特約は譲渡後3年間の期限つきではありますが、まさにこの特約こそが、ライフ、第一ホテル、そしてそごうと、融資先を次々に倒産に追いやっ た新生銀行の行動原理の源なのです。
つまり新生銀行にとっては、そごうが倒産してくれたほうが都合がいい。国が100パーセント肩代わりしてくれるので、 債権を回収する手間も省けるし、融資したお金も確実に戻ってくる。濡れ手に粟、いいことずくめなのです。
現在、債権放棄を要請して再建を図りたい企業がゼネコン、流通などを中心に連なっていますが、新生銀行が他行と足並みをそろえず、独り要請にそっぽを向いている理由もまさにここにあります。

実際、新生銀 行の外国人行員たちは、融資先の倒産を「ホームラン」と称しているという。
ここに彼らの本音があるのです。

<引当金という名の持参金>
私は本来、政府が介入するM&A(企業の合併・買収)の契約においては、契約後の損失を売り主と買い主が分担する「ロスシェアリング」という考え方に基づくべきだと考えています。

将来発生する損失について、瑕疵担保特約では売り主である国が一方的に補填しますが、ロスシェアリングでは買い主もその負担を一部負う。当然、売り 主、買い主の双方が損失を抑えるように努力することになります。
本来、このように両者の指向するベクトルを一致させることこそ正しい契約というものではありませんか。

私は昨年来、国会をはじめいろいろな場で、このロスシェアリングの考え方を導入することを強く提案してきました。しかし今日まで受け入れられ ることはなかった。
その結果、現在のような、銀行が融資先の倒産を喜ぶなどという、それこそモラルハザードの最たるものをもたらしたのです。

私は昨年7月の特別委員会で、当時の柳沢伯夫・金融再生委員長にロスシェアリングに対する認識を質しています。
柳沢委員長の答弁は「金融再生法にお いては、再生委員会による資産判定に依拠する」というものだった。
これは平たくいうと、金融再生法の下のM&Aでは、問題のある債権は整理回収機 構が引き取るから、危ない融資先を買い手企業が引き継ぐことはない。よってロスそのものも発生しない、ということです。しかしそうであるならば、なぜ、そごうや第一ホテルは倒産してしまったのか。あれは健全な債権だったのでしょうか。
長銀が新生銀行に引き継がれるわずかの間に、健全な企業の経営が悪化して、危ない企業になってしまったのでしょうか。ここに今回の問題を引き起こした重大な欺瞞があるのです。

その欺瞞を如実に示しているのが新生銀行の「貸倒引当金」の金額です(下表参照)。

旧長銀の貸倒引当金

    平成11年3月平成12年2月増額
一般貸倒引当金4,137億円
(うち そごうグループ188億円)3,118億円-1,019億円
個別貸倒引当金1,223億円5,899億円
(うち そごうグループ1012億円)+4,676億円
合計#5,465億円9,028億円+3,563億円

# 「一般」+「個別」との差額は特定海外債権引当勘定
貸倒引当金とは、債権が焦げついて損失を被るリスクを回避するために、銀行が積み立てるお金です。当然、リスクの高い債権ほど引当金の額も大きくな る。長銀は昨年3月、金融再生委員会が行った資産判定に基づいて、5,465億円の引当金をつんでいます。ところが、NLPに譲渡される直前の今年2月に なると、引当金はいつのまにか9,028億円にまで引き上げられています。これはもちろん、税金から出た金です。

その中身を見ていくと、注目すべきは「個別貸倒引当金」の項目です。個別貸倒引当金というのは、破綻が懸念される、あるいは実質的に破綻している債 権に対して積む引当金です。この個別貸倒引当金が1年たらずの間に、1,223億円から5,899億円と、5倍弱になっている。そのうち、そごうグループ への引当金だけ見ても、一般貸倒引当金188億円から個別貸倒引当金1,012億円へと激増しています。

これはどういうことを意味するのか。当初の資産判定で「適当」とされた債権がどんどん劣化し、引当金を積み増ししていかなければならない状況に陥っ たということでしょうか。しかし、昨年度日本は経済成長率0.5%を記録し、資産がこれほど劣化する要因はありません。つまり、最初の資産判定自体がまや かしだったのです。危ない債権をも、初め健全な債権にカウントしていた。しかしそれでは新生銀行が納得しないので、譲渡前に引当金を積み増しして、ようや く引き取ってもらった。引当金は新生銀行に引き取ってもらうための持参金代わりではなかったのか。

金融再生法には、預金保険機構は金融再生委員会に対し資産判定の請求をすることができる、とされています。なぜ預金保険機構は、再生委に資産判定の やり直しを要求しなかったのでしょうか。預金保険機構の松田昇理事長は私のこの疑問に対し、「1回は判定する義務がある」と回答しました。1回はちゃんと やったんだからそれでもいいだろう、という完全に開き直った態度です。
実は私は、再生委が資産判定を甘くして、譲渡直前に引当金を積み増すつもりではないだろうか、という懸念を当初から抱いていました。前述した昨年7月の特別委員会で、次のように柳沢金融再生委員長に何度も念を押しています。

「理論的にはきれいな債権しか残っていない。ですから、そこを買っていただく方に過分な金額をつけることはないんでしょうね。」

これについては、柳沢委員長はイエスともノーともつかない玉虫色の答弁に終始しました。

また、「資産査定のときからもし悪化して多くの引当金を仮に積まなければならなくなったとすれば、その理由をその段階では個別のそのときは適とされた企業がなぜ悪くなったのかということを含めて明らかにしていただきたい」
と迫ると、柳沢委員長は「当然のことと心得ております」と、実に明快に答えました。

今年2月現在の個別貸倒引当金、5,899億円のうちそごうグループ分の1,012億円を差し引くと、残りは4,887億円です。この引当金はどの 融資先企業に対して積まれたのか、右の柳沢さんの答弁にもかかわらず、いまだ明らかにされていません。柳沢さんは結果的にウソをついたことになる。

結局、本来なら整理回収機構送りになるはずの債権を大丈夫だと強弁し、問題を先送りしようとする体質こそが税金の大量投入を招いた。こういうまやか しを最初から意図してやろうとしたのか、それとも当初は本当に大丈夫だと思ったものがたまたま悪くなってしまったのか、それはわかりません。わかりません が、故意であったと思われても仕方がないし、判断を誤ったのだとすれば重大な過失です。

ここから先は政治哲学、つまりソフトランディングかハードランディングか、という議論に通ずるのですが、日本の景気が90年代ずっと低迷し続けた元凶は、まさにこの「先送り体質」にこそあったのだと私は思うのです。

たとえ話ですが、江戸時代の火消したちは火事が出たら延焼しないよう、思い切って周りの家を全部取り壊した。そうして大火を防いできたわけです。と ころが今の政府のやり方というのは、徹底した消火活動をせず、くすぶったまま残してしまう。だから風が吹けばまた燃え広がるのです。ましてやマーケットは 火に油を注ぐ面がある。つまり不信感があると、噂が噂を呼び、大火の引き金を引く。そうさせないために、一度徹底的に処理し尽くさなければならないのです。

こう言うと、例えばそごうが破綻したことで、中小零細の取引先が被害を受けている、かわいそうだという議論が出てきます。しかし、あらゆる問題企業 を救済していたら、いったい税金がいくらあったら足りるのでしょうか。私は救済という名の先送りよりは、潰すべき企業は潰して悪い膿を出し切ったほうが、 結果としてもっと強い日本経済が生まれると考えています。
ただし、この考え方を独善的に正しいと思っているわけではありません。大事なことはそういう議論を政治の現場が国民の目の前で行うことです。しかし 問題企業であったそごうを、健全企業であると偽って、新生銀行に引き継がせるようなごまかしを続けていたのでは、そういった議論がなされない。国民には事 実が知らされず、いつのまにか引当金という名の持参金が積み増しされるようなことが行われているのです。

<ゴールドマン・サックスの罪>
もうひとつ、重大な問題を指摘しておきたい。
それは瑕疵担保特約をつけているのに更に引当金を積む必要があったのか、ということです。

つまり瑕疵担保特約があるということは3年間は何があっても国が保証する、ということに他ならないわけですから、本来、その間の引当金は必要ありません。
別のオプションを盛り込むにしても、瑕疵担保特約などという複雑なものでなく、例えば3年間、債権に政府保証をつけてしまえばそれでいい話です。
今は引当金ゼロで、3年後に残った債権だけに当初必要だった引当金を出してあげれば、税金の負担ははるかに少なくてすんだはずです。

この点は、7月に開かれた特別委員会で、新生銀行の八城政基社長にも質したところです。

「すべての引当金について、3年後に新たに引当金が積まれればまったく問題ないという理解でいいわけだと思うんです」

八城社長は、「理屈の上ではそうですが、その…」と、私の議論がまさに「理屈」にかなったものであることをはからずも認めている。

私はなぜこの点に拘泥するのか。そごうは今回倒れましたが、仮に立ち直って、新生銀行への債務2,000億円を100パーセント返済したとします。
すると、まずもちろん新生銀行に2,000億円まるまる入る。その場合、1,012億円の引当金はどうなるのか。実はこれは国庫に戻されることはなく、新 生銀行の特別利益として計上されるのです。国民の税金であがなった引当金が、新生銀行へのビッグな特別ボーナスに化ける。これがあの愚かしい契約の意味す るところなのです。

なぜこのような馬鹿げた事態になってしまったのか。金融再生委員会、なかんずく初代委員長の柳沢伯夫氏の罪は重いと言えます。
もしも、再生委のメンバーがM&Aの素人だとするならば、彼らが正式にアドバイザーとして迎えていたゴールドマン・サックス社の責任も重大 です。ゴールドマンの役割は、長銀の受け皿になる候補先と売却条件を詰めていき、契約をまとめることでした。彼らはプロですから、瑕疵担保特約についても 引当金についても、その裏に隠されたからくりについても当然、熟知していたはずです。売り主たる再生委のアドバイザーなのだから、こんなに一方的に買い主 に有利な契約を看過するなど論外でしょう。

NLPから新生銀行の非常勤取締役に就任したクリストファー・フラワーズ氏が、2年前まではゴールドマンに役員として在籍していたという事実も不可 解です。やはりゴールドマンはNLP寄りで契約交渉を進めたのではないか、NLPとの間に密約があったのではないかと勘ぐられてもしかたがない。

どのような経緯でゴールドマンをアドバイザーに選んだのか、その選考過程を再生委はまったく明らかにしていません。また、ゴールドマンとの間に交わ された契約内容や、いくらでアドバイザリー契約を結んだのか、といったことについて情報を公開せよ、という私たちの要求に対し、国家公務員法上の「守秘義 務」を楯に拒み続けています。

ゴールドマンが職務上知り得た長銀の財務情報なりを開示してはいけない、という条項は契約自体の中に含まれているでしょうし、含まれるべきです。し かし、雇い主の政府がアドバイザーであるゴールドマンに具体的にどのようなことをどのような条件で依頼したか、を開示してはいけないということはあり得な いのです。それに開示されて困るようなこともあるはずがありません。ましてや莫大な税金が投入された今回の長銀譲渡に際して、ゴールドマンがいかなる役割 を果たしたかを知るのは、国民にとって当然の権利ではありませんか。

実はゴールドマンが契約の公開を拒んでいるのは、再生委が拒んでいるからではないかと思えるふしもあります。
長銀と同じく一時国有化されてた日債銀について、再生委は譲渡のアドバイザーとしてモルガン・スタンレー社を雇いました。私は友人を通じてモルガン の東京支店長、テリー・ポルテ氏から、我が社はいつでも日債銀についての契約を公開する用意がある、とのメッセージをもらったのです。
私はポルテ氏にも直 接電話で確認した上、再生委に、モルガンとのアドバイザリー契約を公開してほしい、と迫りました。

ところが再生委の返答は、「こちらでポルテ氏に確認したら、たしかに浅尾氏にはそう言ったが、いつとは言っていない、という答えだった」と木で鼻を くくったようなものでした。おそらく再生委がモルガンにそういう返答をさせたのでしょう。モルガンとの契約内容が公開されれば、次はゴールドマンとなる。 それを再生委は恐れたのでしょう。

新生銀行とフラワーズ氏、そしてリップルウッド社の最高首脳で同じく新生銀行の非常勤取締役を務めるティモシー・コリンズ氏をめぐっては、もう1つ 看過できない問題があります。新生銀行はフラワーズ氏とコリンズ氏がそれぞれ実質的に経営するコンサルタント会社に対して、来年3月までに、何と総額57 億円余の巨額報酬を支払うことになっているのです。
その内訳をみると、すでに今年の3月末までに、フラワーズ氏が議決権をもつJCFマネジメントLLC と、コリンズ氏が議決権をもつリップルウッド・ホールディングスマネジメントLLCに11億1千万円ずつが支払われた。
さらにNLPの親会社にも26億9 千万円が支払われている。加えてフラワーズ、コリンズ両氏に顧問料の名目で来年3月までに、4億1千万円ずつが支払われる予定だという。新生銀行は「当行 への貢献に対する正当な対価」と言っているようですが、多額の税金を投じた日本国民としては到底納得できるものではありません。

金融再生委員会は優先株を取得して再建の手助けをしている民間金融機関に対し、経営健全化計画の提出を求めています。当然新生銀行もその義務を負う ことになる。これに基づいて、再生委は新生銀行に対し、フラワーズ、コリンズ両氏への巨額報酬が適正なものであったか、断固説明を求めるべきです。これほ ど日本国民を愚弄した話はありません。

NLPは確かにしたたかです。シティバンクの元日本代表として知られる八城政基氏を社長に据え、今井敬・経団連会長や樋口廣太郎・アサヒビール名誉 会長といった財界の重鎮を社外取締役に迎えた。おそらく、外資に対するアレルギーを中和させる役割を期待し、彼らを口説いたんだと思います。

実際のところ、今井さんや樋口さんは、新生銀行は他の銀行と歩調をあわせて債権放棄に応じるべきだった、と思っているはずです。しかし今井さんや樋 口さんがそれをいくら声を大にして訴えても、「株を持っているのは誰だと思っているんだ」と言われたら口をつぐむしかない。八城さんだって「誰に社長にし てもらったんだ」と言われれば黙ってしまうでしょう。

<2枚の交渉カード>
繰り返しますが、NLPは新生銀行の経営を長期的スパンでとらえてはいない。瑕疵担保特約が切れるまでの3年間にどれだけ儲け、その上で新生銀行を どれだけ高く売るか、という考えだけで動いているはずです。実際、彼らが3年間で元を取ろうとすれば、何だってできるのです。彼らの新生銀行に対する投資 金額は1,210億円ですが、これも株の配当率を10割にしてしまえば、あっという間に回収できる。これは法律上は可能です。
たとえそこまでしなくても、 次々と融資先企業を潰していって、瑕疵担保特約をフル活用させ、危ない債権を国に買い取らせていけば、利益はどんどん出るのです。

今、こういう新生銀行の手法を嫌い、融資先は新生銀行からどんどん離れているという。また、行員たちも優秀な人から辞め、日常の現金事故さえ多く なっている、とも聞きます。新生銀行は危ない融資先をどんどん潰してしまい、バランスシートだけは抜群によくなっていくかもしれません。しかし、優良融資 先は逃げ出し、優秀な行員もいないというのでは、本来の銀行業務で収益を上げるような力は到底持てないでしょう。
たとえ日本で本腰を据え、銀行業務をやっ ていこうと思ってもできない状態なのではないか。

事ここに及んで、さすがに政治家の間にも新生銀行にいいように振り回される現状をなんとか打開できないか、という声が巻き起こっています。与野党を 問わず、瑕疵担保特約の見直しを検討するべきだ、という趣旨の発言が相次いでいる。しかし、ただ「見直せ」といったところで、資本の論理の権化のような相 手には何ら説得力を持たない。「だって契約したでしょう」で話は終わりです。
かといって一国の政府が契約を一方的に反故にするなど、まるでかつての中国です。

私は、今さら契約の見直しなど考えるべきではないと思う。しかしそれよりも、税金の負担を小さくするために、新生銀行に対して提示できるオプションが2つあります。

ひとつは、先程も述べましたが政府保証をつけるから引当金を返してほしい、と要求すること。新生銀行がこれを断る理由は、少なくとも 表面上は、ない。実際には引当金による運営益が得られなくなるので彼らは損するのですが、そこで「あなたたちはそこまで金儲けにうるさいのか」と質問した時、彼らに「うん」と答える勇気があるかどうかです。これが実現すれば、多少は税金の負担が軽くなる。

もうひとつは、個別貸倒引当金がついている危ない債権については、最初から国が買い取ってしまうという手です。
これなら引当金というボーナスが新生銀行に渡ることはなくなる。新生銀行が呑むかどうか、難しいところですが。
瑕疵担保特約自体を見直そう、という交渉は、政府がどうしてもやるというのなら、していただいて結構だと思いますが,こればかりは亀井さんのような 強腕をもってしてもうんと言わせられるとは思えない。ただ、今挙げた2つのオプションは交渉のカードとして使える。これを断るなら断る理由を彼らは出して くるはずです。そうした時、また新たな交渉の余地が生まれるのだと思います。
不良債権の処理の遅れ、問題の先送り体質こそが「失われた90年代」の根本的な原因だと思われますから、苦しくても思い切って膿を出す政策をとるべきだったのです。
大手術によって不良債権の呪縛から日本の金融システムを解放することが、本来、金融再生法の求めていたことです。

そうすれば長銀を支えた4兆円は、あるいは仮にその金額がそれ以上に増えたとしても生きたお金、明日の日本を支えるお金になったのです。今、瑕疵担保特約のもと新生銀行に費やされているお金は、明らかに死に金です。

私はこの問題を考えるたび、やり場のない怒りと政治家としての自責の念に震えます。今、日本は世界の笑いものになっている。新生銀行はこのままでは税金で生かされておきながら税金で肥え太る「国賊」と堕してしまう。

この秋には日債銀の譲渡が控えています。先日の、久世公堯・金融再生委員長の三菱信託銀行からの利益提供をめぐる辞任騒動が示すように、政治家と銀 行とのもたれ合いが続くようでは、同じことが繰り返されるのは目に見えている。第二の国賊を生み出さないためにも、我々は今、出し得る知恵を総動員し、痛 みを伴う政策でも、未来のために勇気をもって打ち出していかなければならないのです。

●[提言]「敗者復活」社会が日本を救う    平成12年 中央公論11月 プロジェクト「新世代国家戦略」

●[提言]「敗者復活」社会が日本を救う 平成12年 中央公論11月
プロジェクト「新世代国家戦略」

山本 一太(参議院議員 自民党)
浅尾 慶一郎(参議院議員 民主党)
近藤 正晃ジェームス(マッキンゼー・アンド・カンパニー)

「リスクのないところにリターンなし」
われわれが目指すのは人々が健全なリスクをしることができ、それによって日本に夢と活力が生まれる社会である。

90年代、日本の実質経済成長率はなぜ年率0.6%という低い水準にとどまってしまったのか。この間、アメリカがなぜ1.7%という高成長を実現できたのか。
「失われた十年」と評される日本経済の低迷期、90年代の幕が下ろされたいま、「日本再生」のために本当に向き合わなければならない現実がこの 問いの中にある。

答えは意外にも単純な一言に集約される。
「リスクのないところにリターンなし」――。

つまり、日米双方の企業や個人が、この間、いかに果敢にリスク に挑み、乗り越えてきたか。そして、この挑戦を経てどれほどの競争力を身につけたのか。
その差こそが、日米経済の明暗を分けた分水嶺であり、「第二の敗 戦」とまで形容される日本経済弱体化の本質なのだ。

失敗を恐れ萎縮する日本経済。

そこに"勇気"を植えつけ、"活力"をよみがえらせるのは、まさに政治の仕事である。リスクに敢然と乗り出せる活力あ る社会の実現が求められている。
「活力ある日本」を構築するために必要な政策とは何か、それを提言したい。

われわれ、若手の超党派議員、経済人が集い、ここにプロジェクトチームを立ち上げるのは、そのためだ。

本稿は、このプロジェクトの目指す「新世代国家戦略」を具体化するための第一歩として、日本の進むべき方向を"リスク"の観点から問い直そうという試みである。

<リスクへの挑戦がもたらす経済成長への好循環>
まず最初に理解しなければならないことが一つ。リスクに挑戦するプレイヤーが増加し、市場への参入者が増えれば、競争が促進され、結果として生産性 が向上するという事実である。このことを米国のIT産業を例に説明しよう。

新規参入者が増えると、業界内での競争が活発になり、今まで以上に良い製品や サービスの提供を求められる企業は、差別化や生産性上昇のため、ITの活用を促進する。

ITを活用した企業の生産性が向上すれば、企業はコスト削減により 価格低下を実現し、競争に勝利する。
価格低下はさらなる市場の拡大をもたらし、業界でビジネス処理のために最も使われるソフトを開発したIT企業のほうもそのソフトで事実上の世界標準(デファクトスタンダード)を獲得するという好循環を生み出す。

だがこうした成功も、最初に"リスク"を恐れず挑戦する企業が現れなければ始まらない。あらゆる革新にリスクはつきものだからだ。成熟した経済では、リスクを冒して新技術・新商品・新事業モデルを開発しなければ生産性の向上は望めず、雇用も生まず、経済成長も見込めない。
逆に、新しい考えで新規に マーケットに参入する者が多ければ多いほど、飛躍的な成長も可能となる。その代表例が米国にあるコンピューターのネットワーク・インフラ・メーカー、シス コシステムズ社である。

シスコ社は1984年の開業以来急激にその売上と事業価値を伸ばし、2000年にはたった16年でこの分野における世界最大の事業 価値の企業に成長してしまった。
こうした例は、成長著しいIT分野にとどまらない。たとえば小売業でも、アメリカで売上トップ10にランクされる会社のう ち2社は10年前には存在すらしていなかった企業だ。10社のうち半数がここ10年で入れ替わっているというほどめまぐるしい興亡をくりかえしているの だ。リスクに挑戦する新規参入者が、業界の地図を塗り替えてしまったわかりやすい例だ。

競争の激しい業界、リスクへの挑戦者が多い業界ほど、ITの活用に積極的だ。アメリカではIT投資の6割はサービス産業で行われており、その中でも 最も投資量が多いのが小売業と金融業である。
小売業では、商品の絞り込みや物流の効率化にITが寄与している。これに対し、金融ではグローバル規模での取引の支援と素早い情報処理のためにITが活用されている。
これらの業界では新商品の投入や新規参入が多く、競争が非常に厳しくなっており、その中で少しで も顧客に効率的に、早く、正確にサービスを提供するためにITの活用が不可欠なのである。このように、競争が厳しい産業でITの活用が進み、その産業のさ らなる生産性向上に貢献していく。

また、IT産業自体の競争力も、その商品(ソフト)サービスを提供する相手の産業の競争力が高いほど高くなり、競争力のある企業を顧客にもつIT企業が当該産業用ITの世界標準をとる、とう傾向が強い。

医療産業を例にとると、この分野での競争が最も厳しい米国市場で50%以上のシェアを持つHBO社が開発した患者管理・医療業務処理のソフトが業界 標準になっている。
また印刷業界でも、やはり競争の厳しい米国市場で勝ち残ったアドビ社の電子文書ソフトが広く世界で採用されている。金融分野でも、 ウォール街出身のブルームバーグ氏が資本市場の競争に勝ち抜くべく開発した情報サービスが、世界中の金融市場で採用されている。
もちろん米国以外でも製造 業の生産性が高いドイツで育ち、世界に広まったSAP社や投資銀行業務で生産性が高い英国のロイター社等、世界標準を確立した企業はやはり厳しい競争の土 壌の中から生まれている。

当然のことながら日本でも、生産性が高い輸出型製造業(自動車・家電・工作機械など)を中心に先端的IT開発が進む可能性は高い。しかし、輸出型製 造業は、日本の雇用のほんの10%しか占めず、残りの90%の産業の生産性が低いため(『日本経済の成長の阻害要因』マッキンゼー・グローバル・インス ティテュート、2000年7月)、大半の産業ではITで世界標準を確立することが困難なのである。
米国経済を好況に導いた、リスクへの挑戦が競争を促し、ITの活用を促進して産業の生産性が向上し、IT企業も世界標準化する――という好循環を生 み出すために、日本はますリスクへの挑戦に向けての基盤作りが必要である。
それには、すべての日本人が健全な形でリスクに挑戦できる社会体制を構築することが、経済政策の最重要課題なのである。

以下、われわれが考える4つの柱について記述する。

<企業ではなく個人を保護し、失敗しても再挑戦できる体制>

リスクに挑戦するということは、当然ながら失敗の可能性もあるということだ。競争の結果、一部の企業は倒産し、一部の労働者は失業する。競争を促進 するためには、企業や労働者が「安心して」市場から退出できるためのセーフティネットが不可決だ。
ここで重要なのは、政府の役割は、生産性の低い企業の保護ではなく、破産した企業の退出をスムーズに行いつつ、そこで働く一人ひとりの個人をきっちりと保護し、人々が再度リスクに挑戦できる環境を作ることである。

具体的には4つのポイントが考えられるだろう。

1.失業保険給付額の引き上げ

「失業前の所得に対する失業保険給付額の割合」を国際的に比較すると、日本はアメリカよりも2割、英国よりも4割、ドイツよりも6割、フランスより も7割も低い。
ドイツやフランスのように失業保険給付額を高くしてしまうと、人々に働く意欲がなくなり、モラル・ハザードの問題を生むという側面は否めない。
しかしそれにしても、現状の日本の失業保険の給付額はあまりに低いと言わざるをえない。構造改革を断行する当初の5年ほどは、時限的にでも給付額の引 き上げを検討すべきだ。

2.個人のセーフティネット充実のための、生活保障支給率の向上

大半の国において、年収が国民平均の半分以下の場合、生活保障が支給される。
しかし、日本ではこうした人々の大半が生活保障を受けていない。なぜな ら、たとえば、本人がいくら貧しくても親戚に余裕があれば給付が受けられない等の給付条件が設けられているからである。親戚が同じ地域で助け合って暮らし ていた時代にはこうした条件にも妥当性があったが、核家族化が進み、都市で一人暮らしする人が増えた今日においては時代遅れで、実態との乖離があまりにも 大きい。
より個人に焦点をあてた生活保障体系に切り替える必要がある。個人としてリスクに挑戦し、失敗した場合にも個人として保護が受けられる、という環 境を整えねばならない。

3.個人保証なしに資金調達が可能なシステム

わが国の現行の制度では、そもそも新興企業が資金調達をする際に、間接金融の占める割合が高すぎる。新興企業であっても、社債等の負債性の資金であれ、株式等の資本性の資金であれ、直接マーケットから調達できる制度作りがまず求められる。
さらに、直接マーケットから資金調達をするには規模が小さすぎる会社についても、銀行に対して経営者が個人保証せずに資金を借りられる制度を整える ことも急務である。現在、日本では、個人保証付きの借入で失敗をした場合、経営者には再起の機会が与えられない。金利を多少高くしても、借り手企業の キャッシュフローのみをベースに銀行が貸出をするようになれば、金融仲介機能に占める、銀行自体の生産性向上にも寄与するはずである。銀行本体での無保証 での貸出をすぐに実現できないということならば、たとえば投資信託のファンドの一つとして「新興企業向け融資ファンド」のようなものを作り、預金保険の適用は受けないかわりに、高い利回りの可能性があるということで資金を集め、その資金を通常の銀行融資よりも高めの金利で新興企業に貸し出す様な銀行にとっ てのオフバランススキームを構築することも一案だろう。

4.倒産法制の整備とその周知徹底

わが国においても、倒産法制の整備が大分進んで来ている。大きな債務を抱え、どうしようもない状況に陥る前に、こうした新しい法制度を活用して会社 の債務関係を整理し、再出発ができるようにすること、そしてそうした方策があることを国民に広く周知徹底すれば、重い債務に悩んで自殺するといった悲劇も 未然に防げるのではないだろうか。
今までの倒産法制は、大正時代に制定された和議法など中小企業には使いにくく、現状にそぐわないことも多かったことからすると、和議法に代えて民事再生法 を制定する等の一連の法改正は評価出来るのではないだろうか。

<情報公開で、公正な競争と消費者満足の向上を進める>

リスクへの挑戦を実現するには、公正な市場を育成することも不可欠である。まず市場への参入が容易でなければならない。市場への新規参入がなんらか の規制により実質的に制限をされているとすれば、これを撤廃して新規参入を容易にしなくてはならないことは論をまたない。いわゆる、「規制緩和」について は、すでにさまざまな議論が行われているが、もう一つ、新規参入を阻む大きな障壁となるのが「情報」である。

ここでは、議論のポイントをその市場における 情報の開示に絞りたい。
消費者は、商品の品質と価格に関して正確な情報があって初めて、自分に適した商品を選択できる。品質や価格の情報が開示されず、品質や価格の妥当性 を評価できない環境では、消費者はブランドを頼りに商品・サービスを購入しがちである。これでは新規参入の無名ブランドは品質向上やコスト削減のための企 業努力もさして報われず、結果としてリスクに挑戦した新規参入者は圧倒的に不利な立場にたたされる。

情報の圧倒的な不足がマーケットを小さくしている例としては、日本の中古住宅市場が挙げられる。日本における中古住宅市場の規模は、アメリカの17 分の1、フランスの7分の1にすぎない。アメリカにおいて中古住宅市場が活発なのは、中古住宅の品質情報と取引価格情報の提供が徹底しているからである。 まず、品質については日本の住宅金融公庫にあたる抵当証券協会(Fannie Mae)が、全国一律の中古住宅の評価基準を作成し、これを全国の不動産鑑定士が採用している。また、取引価格についても政府がすべて公開しているため、 消費者は自分が購入を検討している中古住宅が、周辺地域の物件と比べて品質、価格がどのレベルにあるかを客観的に比較できる。

これに対して日本では、全国一律の中古住宅の評価システムがいまだに存在しない。
また、実際の取引価格については大蔵省が徴税用に情報収集しているのだが、公開していない。
結果的に、消費者は中古住宅を敬遠し、市場が育たない。
政府としては、全国一律の中古住宅の品質評価の設定を急ぎ、取引価格の開 示に取り組むべきである。このような情報開示は政府の強力な介入がないと実現しない。こうしたプロセスを通して中古住宅の市場が育てば、安価な代替品市場 の出現によって、新築住宅市場の競争が厳しくなり、新築住宅市場も活性化するだろう。

さらに、医療産業も情報開示の遅れが競争を妨げている産業の代表例である。医療分野は専門性が高いため、患者は医療機関の質や治療方法の是非を評価 することができない。正確な情報がない患者は、医療の質が高いと思われる国立病院や大学病院で行列を作ることになる。しかし、それらの大病院が本当に質の 高い医療を提供できるというのは保証の限りではないのが現状である。

これに対してアメリカでは、政府による高齢者向け健康保険制度(Medicare)がすべての医療機関にコストや生産性についての情報の公開を義務づけ、情報をインターネットで公開している。正確な情報により医療サービスの競争を促進することが狙いである。

さらに、50年前から存在する非営利の第三 者評価機関である医療施設認定合同委員会(JCAHO)は、あらゆる医療機関の医療水準(疾病ごとの再入院率)や顧客満足(待ち時間、治療の説明など)に ついて詳細な検査を行い、その認定結果を公開している。米国では患者は、これらの情報源を活用して、地元のどの病院に行けば最も質の高い医療を受けられるのかを簡単に検索できる。
病院側も、医療水準や顧客満足の向上に努めることになる。
また、情報開示が進むと、既存の医療サービスの質に疑問を抱いた医者が開業する、いわばベンチャー病院の出現も進む。ヘルニア手術において北米で最 高水準の成功率と顧客満足度を誇るショルダイス病院や、小児癌に特化して、親子ともに安心して最高の治療とサービスを受けられる体制を築いたサリック病院 等々、多くの具体例がある。
こうした新興であっても、優良な医療機関が成功するには、治療の質に関する情報開示が不可欠な要件である。

日本では医療と並び、金融業も情報公開の遅れが市場を不透明にし、既存業者のクラブ化を生んでいる。それが特に顕著なのが、消費者金融の世界である。現在、大手の消費者金融業者は平均20%以上の利鞘を稼いでいるといわれている。彼等の平均調達金利は3%前後、事故率(貸倒率)が大体三%ぐらいであるのに対して貸出金利が27%近辺であるという事実が、このような高収益体質を生み出している。この数字を銀行の平均利鞘の一%前後と比べるといかに大きいかが分かるであろう。

なぜこれほどまでに消費者金融業者が高利鞘を維持できるのかというと、消費者信用情報を彼らが独占しており、その情報を公開しな いからである。危険な借り手は誰かという情報が、仲間内だけで共有され、新規参入者には開示されない。

したがって、既存事業者は事故率を低く抑えられ、同時に競争が抑制される、という仕組みである。

<リスク管理を支援する専門家の増強>
リスクへの挑戦といっても、やみくもにリスクに挑戦すればよい、というわけではない。高いリスクに挑戦するのは、高いリターンを求めるからであり、リスクとリターンとの関係を正確に評価・判断する能力が極めて重要である。

日本では、こうした判断を支援するプロフェッショナルがあまりに少なく、またそ うした人材を育てる制度も未発達である。中でも、最も急を要するのが金融のスペシャリストと弁護士の質・量両
面での強化である。

まず、金融のスペシャリストである。
銀行・証券・生保・損保といった業態の別にかかわらず、金融機関はリスクと関わり、それを管理することで収入を 得る。
そのリスクのとり方によって金融業は、リスク吸収(融資業務など)、リスク仲介(預金獲得など)、リスク顧問(M&Aなど)の三タイプに分 けることが可能である。
しかし、どのタイプであるにせよ、正確なリスク計測・管理能力を通じて企業や個人により有利なリターンを提供することが金融機関の仕事である。

日本の金融機関では、この正確なリスク計画・管理能力がないために、リスク吸収業務では貸倒が発生し、リスク仲介業務では利率が低くなり、リスク顧 問業務では顧客が不必要に高い買い物や安い売り物をさせられている。
公的資金まで投入しなければならない事態に陥っていることは周知の事実である。早急に 金融に関わるリスクのスペシャリストの育成をしなければ、わが国の金融の生産性の向上は図れない。
第二に重要なのが弁護士の増強である。
日本では、大抵の企業や個人が、何らかの問題が起こった際、弁護士に頼ることなく話し合いで物事の決着をつけようとする。
弁護士の数が少なく、司法プロセスが長すぎるからである。アメリカのような訴訟社会とは異なり、一見穏やかで望ましいようにも見える。しかし、司法のルールに則ったプロ同士の世界ではないため、どのように決着するのか予測を立てにくく、当事者にとってのリスクが高い。
たとえば、多くの法的な リスクが新事業の立ち上げ等にも伴う。専門性の高い、安価な法的サービスを提供する弁護士の数を大量に増やす必要がある。

こうした中で、最近の「ロースクール」設置の議論には傾聴に値する部分もある。
すなわち現在の司法試験およびその後の司法修習制度とは別に、ロース クール制度を設け、ロースクール修了者に対しては国家試験後の司法修習を免除するというものだ。
これによって多くの法曹関係者を多様な観点から生み出すことが可能となり、結果としてよりよい法曹サービスを国民が享受できる可能性が高まるかもしれないからである。

<教育の中で挑戦者をロール・モデルとして示す>
最後に、リスクへの挑戦を肯定し、競争を歓迎する社会を実現するためには国民の大きな意識改革が必要だ。
教育の中で、リスクへの挑戦と公正な競争の 重要性を理解させることが重要である。そもそも、日本の教育では、リスクに挑戦した起業家の評価が著しく低い。営利活動というだけで過小評価されがちとい うこともある。
しかし、大多数の日本人が、民間企業で営利活動に携わっているのである。今学生である若者も将来は大多数が営利活動に関わることになる。彼らが勤めるであろう民間企業が生産性を上げることで既存の商品の価格は下がり、新しい商品が開発され、労働者の所得は上がり、国全体が豊かになっていく。

大多数の人間が関わる、社会的にきわめて重要な活動をネガティブに捉えるような社会には、経済活動における真の活力は生まれにくい。

教育はもっと現実味のあるロール・モデルを子供や若者に提供すべきである。
教科書で扱われる伝記の中でも「経済人」の数は驚くほど少ない。たとえば、戦後の日本経済発展の寵児であった松下幸之助氏の生涯なども、アジアやアメリカのビジネススクールの学生たちのほうが、日本の学生よりもよく知ってい るというのが実情である。

日本がアジアの中で最も早く先進国入りできたのは、数多くの起業家によるリスクへの挑戦があったからである。
そうした姿をもっと 若者に伝えていくべきである。もちろん、人にはさまざまな価値観があり、経済的な成功だけが社会における一つの人生の価値や評価を決めるものではない。
しかし、フェアな競争を勝ち抜き、成功を掴んだ人を嫉妬し、足を引っ張るような風潮からは、健全なリスクを求める「挑戦者」は生まれ得ない。
成功した人の努力や知恵を正当に評価、賞賛し、自らの人生の刺激として受け止められるような社会を作る必要があるのではないだろうか。

われわれが目指すのは、人々が健全なリスクをとることのできる社会、それによって日本に夢と活力が生まれる社会である。

人々が果敢にリスクにチャレ ンジすることを可能にするシステムの構築と失敗を許容するセーフティネットの整備を通じ、「誰にでも何度もチャンスがある社会」を作りたい。

「リスクへの挑戦」――これが日本経済の競争力を回復し、日本を再生するための戦略的切り札であり、そのための体制整備を早急に行う必要があることを重ねて強調したい。

●[特集] 官僚の「無謬性」こそ最大の弊害だ   平成12年10月Voice

●[特集] 官僚の「無謬性」こそ最大の弊害だ
(平成12年10月Voice)

官僚主導から政治主導への転換が唱えられて久しい。
しかし、筆者が実際に国会で経験していることから考えると、まだまだ行政の実務は官僚が動かしているといっても過言ではないだろう。

官僚主導そのこと自体の是非とは別に、官僚組織主導ということから生じる「無謬性」に対する固執と、そのことが変化の速い現代にもたらす問題点について論じる。

官僚組織は基本的に自分たちには誤謬・誤りがないかのように振る舞い、反駁する意見や代案に対しては耳を貸さない。国会で官僚の答弁を聞いていると、問題は霞ヶ関の人間が解決するから外から余計な口出しをするなというような意識をいまだに根強く感じさせられる。
グローバル化の流れのもと全国の叡智がつねに求められる現在において、この「無謬性」に対する固執は、わが国行政の大きな足枷となる。以下、いくつか筆者が国会において政府に指摘をしてきた 具体例に即して議論を展開する。

<外部の提案を採用しない政府>
昨年来の長銀、日債銀の破綻とその売却処理にからむ問題、そしてそごう問題は、いくつもの具体例を提供する。政府は、いわゆる「そごう」問題に際し て国民のあいだで大きな不公平感、不満感が表明されたときに、その原因となった瑕疵担保条項を結ばざるをえなかった理由を、長銀を一時国有化した際の根拠 法規である金融再生法の不備のせいにしようとした。

あたかも、金融再生法が議員立法であり、しかも野党案をベースに与党でも若手のいわゆる政策新人類が関与して作成したからこのような不備があるの だ、当時の大蔵省が用意したもとの法案を採用していればこのようなことにはならなかったという態度を言外に示している。政府が金融再生法の不備として挙げ るのは、そこに二次損失に対する規定がない点、ロスシェアリングルールの考えが盛り込まれていない点である。

しかし、私は、昨年七月の参議院金融経済特別委員会審議の段階で、長銀の売却について「今回の件に関していえば、どう考えても追加の損失が発生する可能性がある。将来のためにも、ロスシェアリングルールを入れる方向性で法改正をしたらどうか」と提案した。

この提案に対して、当時の金融再生委員長である柳沢伯夫氏は、金融再生法は資産判定をベースとしているのでロスシェアリングの考えは採用しない、と答えた。
言い方を変えれば、政府は「われわれは資産判定を厳密に行い、きれいな債権のみを承継銀行に残すので譲渡後の二次損失は発生しない」ともとれるような発言をしていたのである。
この考え自体は金融再生法の趣旨に合致しており正しい。破綻した金融機関の資産から不良債権を取り除き、きれいな債権のみを残せば、瑕疵担保条項を付けずにもっと高い値段で長銀も日債銀も売却できたであろう。

だが、私には政府がすべて疑わしい債権を除去できるとは思えなかったので、ロスシェアリングを入れることを提案したのである。

結果がどうなったかといえば、ご案内のとおり、長銀譲渡後すぐに、ライフ、第一ホテル、そしてそごうと連続して破綻している。
そこで、ロスシェアリングをなぜ入れなかったのかとあらためて尋ねると、彼らは答えられない。現在の金融再生委員長である相沢英之氏は「野党が議員 立法としてつくった法案を、すぐに改正するのはどうかという判断もあったのではないか」という、理屈の通らない答えをした。
法律をよく改正するのに与党も 野党もないし、百歩譲って野党への配慮があったにしても、野党であるわれわれが改正を提案したのだからどう考えても理屈が通らない。

そもそも、政府が主張するようにロスシェアリングの規定が再生法にないからその考えを採用しなかったというのも、論理が通らない。それならば、瑕疵担保条項に関しても、そのような条項は再生法のどこにも盛り込まれていなかったのである。

長銀の譲渡契約は形式上、預金保険機構、長銀、そして買い手であるニューLTBCパートナーズの三者のあいだの私的契約の形をとっている。そして、 金融再生法に二次損失の定めがないことを理由に、民法の瑕疵担保の法理の一部を契約のなかに盛り込んでいる。しかし、瑕疵担保は契約において事前に譲渡後 の損失について特別に定めていない場合に援用されるものである。

民法は、契約において事前に譲渡後の損失について定めがない場合で、その損失の責めが売り手側に帰する場合に、契約に隠れたる瑕疵があるとして現契 約を解除するか、損害賠償を買い手が請求できるとしている。つまり、長銀の譲渡契約に特別に定めなくても、民法の法理に従って譲渡後の二次損失について政 府がロスシェアリング的に損害賠償をすることも可能であったのである。さらにいえば、民法は私人間で事前に二次損失について契約上分担割合を決めることを いっさい禁じていない。

したがって、金融再生法に規定がないからロスシェアリングの概念が盛り込めないのではなくて、譲渡契約のなかでこの考えを盛り込むこともできたのである。この点に関して、8月上旬の参議院の財政金融委員会において、法務省も民法解釈において間違いがないと認めている。

そもそもなぜロスシェアリングのほうが今回の瑕疵担保条項よりよいか簡単に述べておく。ロスシェアリングの考えはアメリカにおいて80年代後半から 90年代初頭の金融問題に際し使われた方式で、譲渡後の二次損失についてあらかじめ定めた割合で国と買い手が損失を分担するものである。二次損失が発生すればいくばくかの損を買い手も被るとなれば、損失を最小化しようと努力するインセンティブが働くのである。
しかし、現行の瑕疵担保のもとでは、たとえば15%の損失が発生したとすると、それを20%以上にして国に買い取らせようという方向にインセンティブが働くので、国と買い手の損失に対するベクトルが合致しないのである。

政府がこちらの提案を薄弱な根拠で取り上げなかった例はまだある。

たとえば、金融早期健全化法等に基づき政府は大手の金融機関の資本増強のために公的資金によって、それら金融機関が発行する優先株を引き受けてい る。これらの優先株と金融機関の株主がもつ普通株との関係について、私は減資を行う際には、普通株の消却を公的資金を財源とする優先株より先に行うこと を、優先株の引き受けに際しての条件とすべき旨提案した。

それに対して政府は、そのような条件を定めることは「株主平等」の原則からしてできないと答弁した。
しかし、政府が取得する優先株は議決権をもたないので、そのぶんだけ経営に対し距離がある。

減資は基本的に経営の失敗があった際に行われるものであり、私は経営責任に距離のある優先株を普通株と同列に扱うのは適当ではないと考えたので、商法の第一人者である東京大学の神田秀樹教授にも意見をいただいたところ、先生も私と同意見であった。
国会で神田先生の意見も踏まえながら再度政府に優先株 取引き受けの条件について問うと、政府側は次のように答えた。

「株主平等の取り扱いに関しては、浅尾議員がご指摘になった神田教授のようなご意見も有力に存在するだろうし、ほかにもそれに懐疑を呈する見解もある」(谷垣禎一国務大臣)

しかし、再三の私からの求めにもかかわらず、具体的に政府の見解をサポートするような学説は、その提唱者も含めて最後まで提示できなかったのである。

普通株と優先株をきちんと区別し、公的資金(税金)に支えられた優先株を保護して、普通株から先に減資していくのは、国民の財産を守ることにつながる。

商法222条第3項には、会社が何種類か別の株式を発行している場合には、資本減少の際に別の定めができるということが書かれている。株主総会で定款の変更を行えばすむことである。
にもかかわらず、「株主平等」ということを間違えて解釈し、普通株の消却を先に行おうとしないのは、どうにも理解できない。実際のところは、すでに 普通株も優先株も減資の際には同じに取り扱うということで銀行側と話をしたので、これを変えたくないというのが本音であろう。
あとから国会議員に「技術的」なことを指摘されたから変えたというのでは彼らの面子に関わるということかもしれない。
これなども、「無謬性」にとりつかれた官僚的思考の大きな弊害 だと思う。

<情報開示に対する意識の低さは深刻>
今後、政治家が政策決定の細部に関与しながら、その決定過程を公表することにより、政治の透明性を高めていくことがますます求められてくる。しか し、決定過程を透明にしようという積極的な動きは官僚機構からは見えてこない。
今回の長銀、日債銀の売却を例に行政の透明性に対する認識について、以下に述べる。

金融再生委員会は「透明性を高める」という理由で、長銀および日債銀の売却に際してフィナンシャル・アドバイザー(F/A)を雇った。国民の税金によって、長銀売却についてはゴールドマン・サックス、日債銀についてはモルガン・スタンレーがF/Aとして雇われた。申すまでもなく、彼らは財務のプロである。
であれば、高額の報酬を受けたであろう彼らが、プロとしての責任を今回の売却交渉に際して十分に果たしたかどうか、知っておく必要があるだろう。換 言すれば、国民負担が最小となるように、さまざまなケースを想定してアドバイスを政府にしたか検証する必要がある。

私は金融再生委員会に、長銀とゴールドマン・サックスとのF/A契約の内容の開示を求めた。
これに対して柳沢再生委員長は「ゴールドマン・サックスとのあいだで守秘義務がある」と答弁した。
しかし、ここでいう守秘義務とは契約上で定められたものではなく、国家公務員法により、相手の拒否している情報は出せないといっているだけのものである。

企業買収に携わる金融機関にとってごく普通の契約内容を開示することで、いったいどのような不都合が生じるのか、まったく不明である。
そして、日債銀とモルガン・スタンレーとのF/A契約開示について、私はモルガン・スタンレーの東京支店長テリー・ポルテ氏が「いつでも契約に関す る情報を提供したい」といっているという話を、友人経由で偶然にも耳にした。そこで、直接本人に確認をしたところ、彼は「間違いなく開示する」と答えた。

にもかかわらず、国会で政府側はこの件に関して「いつ開示するとはいっていない。いまは開示するのに適当な時期ではないと判断している」ので明らかにできない、と答弁したのである。

情報開示意識の低さは深刻で、昨年3月期の長銀や日債銀の決算短信には、その前の期まで出されていたアニュアルレポートや有価証券報告書に載ってい た営業経費の細目、役務取引の状況についての報告が記載されていない。一般の人々が関心を持つ資産の保有量、社宅の保有状況を示す数字もない。

一方、破綻金融機関の処理のために講じた措置の内容に関する計画書には、営業経費の削減計画なども詳細に書かれていた。計画に書かれていた内容が、報告にないというのはどういうことなのか。

<自治体ごとの1人当たり納税額がわからない>
問題は金融のみではない。今後地方分権の議論をするうえで、税源の地方移譲ということが大きな問題となってくることは間違いない。その際、移譲され る税源の最有力候補の一つが所得税であるとも申すまでもない。
であれば、いま現在自治体ごとに一人当たりでいくら所得税を国に納めているかのデータが必須 となる。

しかし、このデータがないのである。私は早急にかかるデータが取れるようにするべく提言したが、いっこうに政府は動こうとしない。
地方交付税交付金は、自治体間の財政を均衡にしようとする目的で設けられた。しかし、現在交付を受けていない都道府県は東京都のみである。47ある 都道府県で、一つしか地方交付税交付金をもらっていないという現状は、交付税制度の破綻を意味しているのではないか。つまり、地方自治体の税源がいま以上 に厚くなるよに税源の地方移譲を真剣に議論すべき時期に来ているのである。

多額の税金を納めているのに、自分の住む自治体に少額しか国から戻ってきていないという不満が、多くの都市住民のあいだにある。私が住む神奈川県の 県民一人当たりの地方交付税交付金と国庫支出金は、約37,000円と47都道府県中最も少ない。
同一人当たりの額が最も多い島根県(約430,000 円)と比較すると、じつに10倍以上の格差が生じている。これだけを見ると明らかに不公平とも思える。
しかし、もしかしたら、島根県の人のほうが、一人当たりははるかに多くの所得税を国に納めており、それがたんに戻ってきているだけかもしれない。あるいは、逆に、神奈川県民のほうがはるかに多くの税金を国 に納めているとすれば、表面の10倍の格差以上に不利な取り扱いを神奈川県民は受けているといえることになる。いずれにせよ、いくら国から税金が地方自治 体に戻ってきているかのデータはあるものの、その前段のいくら国に払っているかのデータはないのである。

給付と負担の割合を知るうえでどうしても欠かせない、自治体ごとの一人当たり所得税納税額について大蔵省に問い合わせたところ、大蔵省側は、「申告 納税の場合、納税申告書は納税者控-国税用-市町村用の3連式になっているので、市町村のほうで集約してもらったらどうか」「源泉徴収分については、たと えば神奈川県に住んでいる人でも、勤め先が東京都の場合があり、その場合、源泉徴収義務者の所在地と納税者の居住地とが合致しなくてデータを把握できな い」などという理由で、これを拒否したのである。

しかし、各納税者のデータがそれぞれコンピュータ内に登録されているのならば、住所にフラッグ(基準)を立てて検索し、集計するのはけっして困難な作業ではないはずだ。

繰り返しになるが、現在、地方分権と税財源の移譲が、政治の重要な検討課題になっている。そのなかで、所得税の移譲のシュミレーションを行おうとした際に、ある自治体の住民が1人当たりいくらの税金を納めているかは、押さえておくべき基礎データだ。
国税と地方税の比率を考え、国家財政の運営を適切にはかるうえで、1人あたりの納税額は多少のコストはかかっても明らかにしなければならない数字 だ。それをいまだに算出していないのは、何かしらデータを出したくない理由があると疑われても仕方がない。何より、税務署側のコストだけを強調する姿勢か らして、彼らが納税者のほうを向いていないことがわかる。税が民主主義の基本であることを考えるとこれは重大な問題だ。

<結果に対し責任をとり、とらせる政治を>
これらは一例にすぎないが、私が真に恐れているのは、変化の激しい時代にあって、役所のなかだけで物事を決めていこうとする官僚の論理によって、国の考えや方向性が固まってしまうことだ。
世界中がドッグイヤー(犬の年齢)のスピードで変化しているなか、日本の政治だけが変化についていけなくなる。情報がオープンである市場経済の世の中でディスクロージャーを拒否するなど、もってのほかである。
IT時代の変化に対応する政治が必要とされる。
その意味で、たとえば時限的な行政委員会である金融再生委員会は、その試金石として有効に活用しなければならなかったはずだ。さまざまな分野の専門 家が委員として入るのはよいが、委員の力だけでは限界がある。結果として、事務局員を多数派遣している大蔵省の考えに抑えられてしまった。
大蔵省の職員は 1万人以上いるだろうが、その組織のなかに大蔵省によって採用された人以外の人が、大臣と2人の政務次官のたった3人しかいない現状はいかがなものか。どうしても組織の論理が勝ってしまうのではないか。やはり、局長に相当するような重要ポストにまで、官僚以外の人が入り、かつ任期と権限そして責任を明確にして行政を運営する必要があろう。

日本は、人的関係を重視する国から結果責任を求める国に変わるべき時期を迎えている。90年代の10年間で、企業はたいへんなリストラを行いながら も、なおなかなか収益が上がらず、株主に十分な配当を行なえていない。
にもかかわらず役員の誰も責任をとろうとしない。
これまでの、日本社会が、企業に結 果責任を問うてこなかったからである。

同様に、今後は政治にも結果責任を求めなければならない。そのためには現行の大臣の任期は短すぎる。3年程度の任期のあいだに「これだけは成し遂げる」という大きな目標を掲げさせて、その達成を1年後、2年後と審査しなければ、誰も結果に責任を負わず、たんに世の中の流れに合わせて行政をするだけになってしまう。
そして政治家が掲げた目標達成に向けて役所を動かすことができるように、せめて局長クラスくらいまでは外部の民間人も含めて任用できるようにするべきである。

もちろん、そのためには社会全体で労働市場の流動性を高める必要があるが、そうして初めて、選挙で掲げた公約を達成できなかった場合に 結果責任を問うていく政治家が実現できるのである。

●[提言] 首相公選制の手続きはこれだ 平成13年 中央公論1月

●[提言] 首相公選制の手続きはこれだ 平成13年 中央公論1月

浅尾 慶一郎(参議院議員 民主党)
山本 一太(参議院議員 自民党)

いま政治に求められているのは、大胆かつ迅速なリーダーシップの発揮である 国会議員が政党の枠を超え、憲法改正を視野に入れ提言する。

<求められる首相のリーダーシップ>
わずか1ケ月、いや10日余りで新しい時代―21世紀を迎える。
新世紀を目前に、変革の胎動は日本の政界にも起こりつつある。
1999年4月には東京都に石原都政が誕生。
去る10月には保守王国・長野県で田中康夫氏が知事に就任し、11月には栃木県において政党の推薦を受けない福田昭夫氏が5選を目指す現職に競り勝った。
地方を中心に、政治に新しい息吹が感じれれた象徴的な出来事だった。

一方、国政は相変わらず暗雲に覆われ、文字通り「世紀末」を実感させる。どの政党も国民の政治不信に応える充分な提言もなく、有権者の諦観を募らせている。

コンピュータの著しい普及による〈ドット・コム時代〉には、迅速かつ果敢な政治決断と実行が求められる。情報革命を中核としたグローバル化の波の中 で、時代の変化に柔軟なものだけが勝ち残る時代である。
当然、トップにはそれに見合う決断と実行が求められる。だが、日本丸の舵取り役=内閣総理大臣が大 鉈をふるえる環境は、残念ながら整っていない。

首相の権限を強化するためには、何よりも国民の信任と支持が不可欠である。激戦・接戦が続いたアメリカ大統領選挙も、結局は国民に権力の源泉を求め ての戦いであった。
石原知事が辣腕を揮えるのも、都民に直接選ばれた強みがあればこそ。田中氏が長野県庁を敵に回しながら県政の改革に着手できるのも、県民に直接選ばれた自信と強みがあるからである。

首相であれば、それは〈公選〉という手続きである。

無党派層を得体のしれない代物として恐れ、公選導入をためらうのではなく、彼らの支持を〈武器〉により大胆な政策を遂行すべき時代なのである。

萌芽はある。超党派議員でつくる「首相公選制を考える国会議員の会」(会長・山崎拓元自民党政調会長)は憲法改正を念頭に、5年ぶりに活動を再開した。
民主党の鳩山由紀夫代表も、しばしば首相公選論に言及している。昭和20年代に中曾根康弘元首相が唱えた公選論は、いまや時代の閉塞感を払拭する切り 札になろうとしているのだ。

1月には、霞が関改革=省庁再編とともに官邸機能も強化される。だが、歴史を繙くまでもなく、〈器〉が換えられても〈中身〉は旧態依然という例は十 指に余る。
衆参各院に憲法調査会が設置される今日、首相のリーダーシップを強化する〈公選制〉も俎上に載せるべきではないか。機は熟したと言えよう。

<永田町と国民世論の乖離>
これまで首相は実質的に与党内だけで選ばれてきた。
自民党の単独政権では機械的に党の総裁が首相に選出され、それは議院内閣制であれば当然のことと認識されてきた。
だが、首相誕生劇の舞台裏では、派閥間で激しい取り引きと駆け引き、さらには合従連衡が繰り返されてきたのだ。

首相が永田町世論を背景に選出される結果として、「内閣の首長」は与党内で八方美人、少なくとも四方美人に振る舞わなければならなかった。経綸、す なわち政治的手腕を発揮するにも与党内の合意が必要とされ、そうしたコンセンサス政治が首相のリーダーシップを著しく阻害してきたのである。
選挙で選ばれ た者は有権者にカオを向けるものだが、わが国の首相は国民ではなく、永田町の面々にカオを向けざるを得なかった。自民党総裁であれば、先ずは主流派のご機 嫌を損ねないことが肝要だったからだ。

だが、いま、コンセンサスの形成を待っていられるほど、わが国には時間的余裕があるのだろうか。日進月歩、いや秒進分歩の勢いで目まぐるしく変わる社会情勢、そして世界におけるわが国の役割の大きさに鑑みれば、むしろ〈大統領的首相〉が求められる時代を迎えているのだ。

もとより権限の強化を図ることは「強い首相」を創る第一歩。しかし、民主主義国家におけるリーダーの最大の〈武器〉は、実際に付与されている法的な 権限よりも、主権者たる国民の支持に他ならない。アメリカ大統領が強権を発動できるのは、長丁場の選挙戦を通じて国民の支持を得たからである。『論語』に ある「民信なくば立たず」とは、まさに現代政治の本質を切り取った一言であり、言い得て妙である。

与党が国民世論に忠実に首相を選び出せば、問題はない。
衆院総選挙が「首相を選ぶ選挙」の色彩を強く帯びれば、各党は名実ともに党を代表するカオを 選ばなければならなくなる。
だが、衆議院の選挙制度改革を経た今も、そうした兆候はまだ強く感じられない。衆議院の選挙制度を完全小選挙区制にして、かつ 一票の格差をなくせば、将来、首相公選と同じ効果をもたらすかもしれない。しかし、実際に有権者が自己の投票と首相の選任とを結び付けて考えるようになるには、一工夫も二工夫も凝らし、少なくとも数回の総選挙を経なければならないだろう。
ましてや現行制度の下では、永田町世論と国民世論との間に温度差があ り、それを総選挙という装置で縮めることには限界があるので、国民世論に根ざしたリーダーの選出、つまりは首相公選が有力な選択肢として考えられる。

<公選制を実行したイスラエル>
しばしば「議院内閣制と首相公選制は相容れないもの」と指摘されてきた。確かに、議院内閣制の下では議会が首相を選出する。中学や高校の教科書を繙 くまでもなく、民主主義国家の政治機構は大統領制と議院内閣制に大別され、国民が直接リーダーを選び出す仕組みは前者であるとされている。

だが、珍しい例ではあるものの、イスラエルに首相公選の例を見ることができる。イスラエルの人口は概ね600万人。
一院制を採っており定数は120 名である。そして、同国はもともと議院内閣制であったが、完全比例代表制の議会のため小党分裂が進み、首相のリーダーシップの発揮が容易でなくなった。か かる状況を打破し、首相のリーダーシップ強化を目指し、1992年から公選制が採られている。
議院内閣制に首相公選を採り入れたため、議会と内閣、とりわけ首相は大統領制以上に密接な関係を有する。
首相公選というと、誰にでも立候補資格が与えられ、議会に責任を持たない者が首相の座に就くことが懸念される。
しかし、イスラエルでは、国会議員し か首相になれないとか、大臣の半数は国会議員でなければならないといった規定がある。
国民5万人の推薦か議員10名の推薦のいずれかを得た国会議員でなけ れば、総選挙とともに行われる首相選挙に立候補できないとされている。
ただし、新人の場合はその政党の比例名簿第一位に記載されることを前提に、例外的に 立候補資格が与えられる。
しかし、議席を獲得できなければ、たとえ首相選挙で得票数が一番多くても「首相当選」は無効と化す。
この結果、第一党または第二 党の推す候補が首相に選出されやすいのだが、国民の信任を得ているという点では、大統領並のリーダーシップの発揮が可能となる。

もう一つの懸念として、野党が議会の多数を占め、内閣不信任案が頻発されることが挙げられる。だが、首相を退陣に追い込むためには、議会の2/3以 上の特別多数が必要とされ、単純過半数での可決であれば、首相は議会解散権を発動できる仕組みとなっている。無責任な不信任案の提出・可決は自らのクビを 絞めることになりかねず、野党も世論の推移を見て判断せざるを得ないというわけだ。

<独裁色を弱めたい大韓民国>
西に公選首相のリーダーシップを可能にした国があれば、東には行き過ぎたリーダーシップに歯止めをかけようとする国もある。韓国では大統領制が採ら れ、大統領は国民によって直接選ばれている。
金大中大統領が突如訪朝し、金正日総書記と電撃的な首脳会談を行ったことは、まだ記憶に新しい。こうして自由 自在に国政のハンドルをきることができるのも、国民によって直接選ばれているからである。

その一方、強すぎる大統領権限に対する警戒感も根強い。アメリカでは、確かに大統領には強権が与えられているが、連邦議会にはそれを抑止する権限が 与えられている。
いわゆる〈均衡と抑制〉の原理がうまく作用しているのであるが、韓国の場合、法的な権限に加え、現実には大統領が与党の党首を兼ねている ため、両者の関係が著しく不均衡になっているとの指摘がある。このため、現行の大統領制を見直して、議院内閣制を導入すべきだとの意見もある。
事実、3年 前の大統領選挙に際して、金大中氏と自民連の金鍾泌氏の政策合意の中で、内閣制への移行が謳われている。もっとも、安全保障の観点から、韓国には強力な大 統領が必要だとの理由により、世論の大勢は内閣制支持に傾いていない。

確かに国民から直接選挙された者が大統領として君臨し、経綸を実行することは一つの統治形態として考えられる。
一方で、同じく国民が選んだ議会が軽 視されることは、民主政治の観点から許され難いことであろう。自民党の亀井静香政調会長は「日本人は独裁者を好まない」と指摘したが、韓国大統領のような権力者は、日本の政治風土に馴染まないかもしれない。
だが真理は中間にあるもので、日本の首相と韓国の大統領の中間的に位置する首相こそ望まれるのではないか。
問題はサジ加減である。

わが国に首相公選制を導入するとしたら、現行憲法の枠内では不可能である。自民党の総裁予備選挙は投票を党員に限定している点で公選制とは呼べない。
また、民主党の代表選挙は1,000円を払えば誰でも投票権を持つが、1,000円にしろ財産的な対価を要求する以上、これも公選制に当たらない。国 民であることが選挙人の必要十分条件であることが、首相公選制の本質である。

では、現行憲法のどこを改正しなければならないのか。憲法論議というと第九条ばかりが注目されるが、拙稿では首相公選制を導入するため、はなはだ粗削りながら、主な箇所に関して以下のような試案を作成してみた。なお、カッコ内は現行の規定である。

第6条 [略]
1. 「天皇は、国民投票による指名に基づいて、内閣総理大臣を任命する」
(天皇は、国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命する)
2. [略]

第7条
1.-3. [略]
4. 「国会議員の総選挙及び内閣総理大臣の指名の国民投票の施行を公示すること」
(国会議員の総選挙の施行を公示すること)
5.-10. [略]

第41条 「国会は、国の唯一の立法機関である」
 (国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である)

第65条 「行政権は、内閣総理大臣に属する」
 (行政権は、内閣に属する)

第66条 [略]
2. [略]
3. [削る]
 (内閣は、行政権の行使について、国会に対して連帯して責任を負ふ)

第67条 「内閣総理大臣は、国会議員70人以上の推薦又は投票人の資格を有する国民100万人以上の署名を得た国民の中から国民投票により、これを指名する。 ただし、内閣総理大臣は、衆参いずれかの議院に議席を有する者でなければならない。
 (内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する。この指名は、他のすべての案件に先だって、これを行ふ)

2. 「内閣総理大臣の任期は、4年とする。ただし、衆議院解散の場合は、その期間満了前に終了する」
 (衆議院と参議院が異なった指名の議決をした場合に、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は衆議院が指名の議 決をした後、国会休会中の期間を除いて10日以内に参議院が、指名の議決をしないときは、衆議院の議決を国会の議決とする)

3. 「投票人の資格、投票の方法その他内閣総理大臣の指名の国民投票に関する事項は、法律でこれを定める」
第69条 「内閣は、衆議院で総議員の2/3以上の多数で不信任の決議案を可決したときは、10日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職しなければならない」

 (内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、10日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職しなければならない)

第70条 「内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員総選挙が行われるときは、内閣総理大臣を指名する国民投票を実施しなければならない」

 (内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があったときは、内閣は、総辞職をしなければならない)

第73条 「内閣総理大臣は、他の一般行政事務のほか、左の事務を行う」
 (内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ)
1.-7. [略]

まず、首相公選論の是非が論じられる際、元首と見なされている天皇との関係が問題視されやすい。仮にわが国に大統領制を採り入れた場合、天皇制と両 立し得るかという議論がある。われわれは両立しえると考えるが、かかる議論にも配慮し、試案では、首相選挙への立候補資格として、国会議員70人以上の推 薦又は選挙権を有する国民100万人以上の署名を首相への就任条件として、国会に議席を有することを挙げた。
つまり、現行の天皇制を前提に、首相公選制の 検討を試みたのである。

国会議員の推薦の「70人以上」の根拠としては、衆参いずれか、あるいはその両方に一定の支持基盤があることが望ましいと考えたからである。この数 字は全国会議員の1割近くに相当し、また現行の国会法では予算関連の議案提出要件として、衆議院においては50人の、また参議院においては20人の賛同者 を挙げていることも参考にしている。選挙権を有する国民の「100万人以上」の根拠としては、選挙権資格を有する国民の概ね1/100に相当するからである。

こうした立候補要件を設けることにより、候補者の乱立を防止できると考えられる。

また、試案第69条にあるように、衆議院の総議員の2/3以上の多数で内閣を総辞職に追い込むことができる点では、紛れもなく議院内閣制を前提にし ている。大統領制であれば、議会に罷免権は認められても、政治的責任を追及して総辞職に追い込むことは認められないのが一般的である。

<試案の問題点>
もとより本試案は発想を転換するための粗削りのものであり、多くの法的矛盾、あるいは検討課題があることは否めない。
例えば、国民投票で指名された 者が総選挙で落選した場合には首相に指名されないのであるが、この場合、いかなる代替措置を講じるべきかは引き続き検討を要する。
解散から総選挙までの短 期間で有権者100万人の署名を集めることも、決して容易ではない。このため、打開策の一つとして、インターネットなどの活用が議題としてあがってくる。

国民から直接選ばれた首相は国民に対して責任を負うが、衆議院が不信任決議案を可決することによって、内閣を総辞職に追い込めることを懸念する声も ある。この点については、可決要件を2/3以上に引き上げているが、さらなる検討が必要とされる。
また、選挙で選ばれた者に天皇が任命行為を行うことにつ いても、その矛盾を指摘する意見がある。

さらに大きな問題は、首相と内閣との関係である。現行憲法においては、内閣の職務に関する記述が多く見られるが、これらをどこまで内閣総理大臣の職 務に置き換えられるかは悩ましいところである。言い換えれば、独任制と合議制の線引きをし直さなければならず、最高裁判所長官の任命、天皇の国事行為に対 する助言と承認、臨時国会の召集、決算の提出などは内閣の職務とされてきたが、どこまで首相が単独で行えることにするのかについても、引き続き検討を要す る。

本試案においては、あくまでも現行の議院内閣制を前提に検討を加えてきたのであるが、公選制の導入を図る際には、以上のような問題についても十分吟味する必要がある。

<予想される効果>
首相が国民から直接選ばれ、国民の支持に基盤を置くことにより、首相の視線は当然のことながら国民に向けられることになる。いわゆる「永田町の論理」だけで政策が決定されることも少なくなる。「国民不在の政治」のレッテルも払拭できる。
首相は緊張感を持って国政を担い、国民の支持を背景に勇猛果敢 に経綸を実行すること、つまりリーダーシップを発揮することが可能になる。
主権者であり選挙人でもある国民の方も、自覚と責任を持って票を投じるようになる。

再述するが、石原都知事のリーダーシップの源泉は、都民の圧倒的支持である。
また、首相公選制が実現されれば、これは日本全国どこに住んでいても1 票は1票であるので、究極の1票の格差是正策となる。首相も有権者全体に対して責任を負う形となり、地域エゴを反映した政策は実現されにくくなる。
換言すれば、ある地域にとって有利な政策が日本全体にとって必ずしも望ましいものでない場合でも、今までは有力政治家同士の妥協という形で採用されてきたケース が散見するが、首相公選制の下ではかかる事態は飛躍的に少なくなるはずだ。

首相の地元であってもあまりに優遇されれば、全国民からの反感を招くため政治家の行動様式にも歯止めが働くと予想される。
つまり、政策の個別論に入ると、地域、あるいは業界の利害に絡んで遅々として進まなかった日本の構造改革が、全 国民に直接的に支持される形で進展する可能性がある。
もっとも、首相公選制が導入されても、政党政治が崩壊するわけではない。立候補要件が設けられている以上、結果的に政党の代表者が首相に選ばれる可 能性が高い。

しかし、その選ばれ方が、従来の「永田町の論理」ではなく、「国民の論理」で選ばれることになるのである。
このため、各党は単に党内で多数の 支持を得られる党首ではなく、国民の支持を受けられる党首を選ばなくては政権党の座を獲得できなくなるのだ。
従来の派閥政治も大きく変化し、ポスト配分のための派閥は、首相公選制の導入によって、文字通り「党のカオ」を選ぶための集団と化すことになる。そ うでなければ、その政党は国民の支持を失い、間違いなく衰退していくことになるからだ。
たとえ地元への利益誘導に勤しんでも、首相選挙で勝利をおさめられ なければ、早晩その議員の影響力は弱まってしまう。首相公選制の導入で、政党も派閥も、大きく改革され、まさに「政党の近代化」が推進されるのだ。

逆にいえば、首相公選制は政治家全体の「資質」にも変化をもたらすということだ。
首相公選システムの下でリーダーを目指す政治家は、これまで以上に 確固たる政策ビジョンと国際感覚、そして何よりも優れたコミュニケーション能力を国民から求められるからである。
さらに、「永田町の論理」ではなく、「国 民の論理」で選ばれた首相は、組閣にあたっても実質的な人事権を行使することが可能になるし、その責務が課せられる。
大臣や副大臣も派閥均衡や年功序列で はなく、文字通り「能力」と「適材適所」というコンセプトに基づいて選任される。
こうした状況の中では、いわゆる利益誘導型の政治家は影を潜めざるを得 ず、わが国においても40代の首相誕生の可能性が高まるだろう。

今日まで首相公選論が唱えられてきたにもかかわらず、必ずしも現実的だと思われてこなかったのは、具体的な制度論が論じられなかったからである。このため、拙稿ではそうした点を多分に意識して、具体的な制度改革の試案を検討してみた。もとより粗削りであり、法律家の目からは稚拙であろうが、今後の憲 法改正論議に一石を投じることになれば幸いである。

本稿の執筆に当たり、武蔵野女子大学助教授(日本政治)の本田雅俊氏に多大なご協力を頂いた。

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